フォートレスの夜
フォートレスの食堂は午後7時を過ぎると混み始める。
リオン・アスフォードは端の席に座り、トレイの上のレーションを見つめていた。圧縮穀物のバー、合成タンパクのペースト、野菜スープ。栄養は完璧に計算されている。味は完璧に平坦だった。明日からはこれすら食べられなくなる。そう思っても不思議と惜しいとは感じなかった。惜しいのは味ではなく別のものだった。
「五種類の味があるって知ってたか」
向かいにルーク・ソマーズが座った。同じトレイを持っている。同じレーションだ。
「全部同じ味だ」
リオンは答えた。
「俺もそう思ってたんだけどな」
ルークは合成タンパクのペーストをスプーンですくい、口に入れた。しばらく噛んでから首を傾げた。
「……うん。全部同じ味だ」
リオンは穀物バーをかじった。乾いた粉の感触が口に広がる。灰域で食べた灰域パンを思い出した。硬くて不揃いで、焼き加減が毎回違った。一度芯まで黒く焦げたのを掴まされたが、それでも腹は膨れた。あの不揃いな焦げのことをなぜか今、舌が覚えている。
「お前、最近どこか遠い顔をしている」
ルークがスプーンを止めた。茶色い目が真っ直ぐにリオンを見ている。この男は昔から妙に勘がいい。戦術の成績は中の上だが、人の機微を読むことにかけては誰より鋭かった。
「何を考えている?」
リオンは答えず、スープを一口飲んだ。薄い塩味が舌を滑る。
「――別に」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「お前が『別に』って言う時は、大体嘘だ。入校以来ずっと見てるから分かる」
リオンはスプーンを置いた。ルークの目を見る。裏のない真っ直ぐな目だった。何でもないと言いかけて、言葉が喉で止まった。この男にだけは言えない。言えば巻き込んでしまう。
「考えることが多い時期なだけだ」
「なら言え。俺に」
「ルーク」
「俺はお前の――」
ルークが言葉を切った。何かを飲み込むように喉が動く。
「――同僚だろ。何かあれば言え」
その言い直しは妙に固かった。
「……ありがとう」
リオンは立ち上がり、トレイを片づけて食堂を出た。ルークの言いかけた言葉が廊下を歩く間も頭の隅に引っかかっていた。だが今はそれを考えている余裕がない。明日にはもう会えなくなる男だ。それも何も言わずに。後ろめたさだけが足の裏に残った。
* * *
夜のフォートレスは静かだった。
パトロールの汎殻が巡回し、灰青色のセンサーライトが路面を舐めていく。その光が近づくたび、リオンは自分の影が一瞬だけ青く沈むのを見た。巡回の間隔に合わせて知らず歩調まで整えてしまう。この街にいるといつもそうだ。
港湾に近いポートガード地区まで来ると空気が少し緩んだ。フォートレスで唯一、規律の網の目が粗い一角だ。倉庫を改装した酒場が並び、安酒と煙草の匂いが路地に漂っている。フードを目深に被ればここでは少尉の顔など誰も気に留めない。
リオンは軍服の上にフードつきの外套を羽織り、酒場の一つに入った。
店内は薄暗く、旧世界の真鍮ランプが黄色い光を落としている。奥のステージでは三人組がジャズの即興演奏をしていた。トランペット、ピアノ、ドラム。音が煙草の煙と混ざり合って天井に昇っていく。
カウンターに座ったが、注文はしなかった。演奏を聴くためだけに来ている。
次の音がどこに跳ねるか読めない。リオンは目を閉じ、トランペットの旋律を追った。軍では先が読めるのが正しい。命令は決まった順に下り、決まった通りに動く。だがここでは誰も次を知らない。その読めなさにいつも肩の力が抜けた。
演奏がフォートレスでは決して聴けない音を立てている。明日からはこの音とも縁が切れる。灰域にジャズはあるのだろうか。あの砂埃の集落で誰かが楽器を吹いているところを、リオンは見たことがなかった。
隣の席に人が座った。
目を開けると、アイリス・トレントだった。情報参謀の制服ではなく地味な民間服を着ている。いつもきっちりまとめている髪を今夜は下ろしていた。その姿を見て、リオンは改めてこれが軍の中の出来事ではないことを実感した。
「明日の夜、ルートが開きます」
アイリスの声は店内の喧噪に紛れて、リオンの耳にだけ届くように低かった。
「ルイ・ヴェルデの手配です。夜間に動きます。警備シフトに、一時間だけ空白がある」
「その先は」
「そこから先は、ルイも保証しないと言っています。アッシュゲートを越えれば、もう管区の地図は役に立たない。どうなるかは、行ってみなければ分からない」
リオンは頷いた。分からないという言葉が、かえって正直に聞こえた。
「ポラリスは」
「持ち出せません。銘殻の起動ログは常時監視されています。銘殻を動かせば、10分以内に追跡が始まる」
「分かっている」
ポラリスを置いていく。
その一言が思っていたより重く胸に落ちた。リオンの銘殻。エマが冴覚に合わせて何ヶ月もかけて磨き上げてくれた機体だ。あれに乗っているときだけは、自分の体が二回り大きくなったように感じられた。それを置いて生身で荒野に降りる。守るもののないただの人間として。怖くないと言えば嘘になった。
「エマが整備データを渡してくれます。ポラリスの全データ。いつか取り戻す時のために、と」
「エマに」
「言わなくていい。あの人は分かっています」
ステージのトランペットが長いソロに入った。高い音が伸びて天井に消える。リオンはその音を聞きながら、自分の中の何かが固まっていくのを感じた。
「アイリス。あなたはどうする」
「私はここに残ります。外にいるあなたと、中にいる私。どちらか片方では、何も変えられない。両方が、それぞれの場所にいなければ」
リオンはアイリスの横顔を見た。口元に深い皺が一本あった。この皺がいつ刻まれたのか自分は知らない。この人が組織の中で何を見てきたのかも、本当のところは何も知らない。その人が残ると言っている。
「ありがとう」
「礼は要りません。私にも、私の理由がある」
その理由をリオンは訊かなかった。訊いたところでアイリスは答えないだろう。それぞれがそれぞれの理由で、後戻りできない場所に立っている。それだけが二人の間にある確かなことだった。
演奏が終わった。まばらな拍手が店内に響く。リオンは席を立った。隣のアイリスはもう前を向いている。別れの言葉はどちらからもなかった。明日からは薄い壁の両側でそれぞれの戦いをするのだ。
* * *
酒場の扉を開けると、刺すような夜気が肺へ流れ込んだ。
整然と並ぶ街灯と、染み一つない舗道。ここで生まれ、この光の下で育ち、この街の軍服を着た。明日の夜にはそのすべてを捨てる。
踏み出した軍靴の底が硬い石畳をこすって鈍い音を立てた。もう踵は返せない。せり上がるような胃の冷えを抱えたまま、リオンは白い光の下に張りついた自分のつま先をしばらく見下ろしていた。
荷物をまとめなければ。最低限の装備と、灰域の地図。アイリスから受け取った要綱のコピー。それだけだ。生まれ育った街に置いていくものの多さに比べれば、持っていくものは両手に余るほどもなかった。
リオンは足を速めた。振り返りたい気持ちを一歩ごとに踏み潰しながら。




