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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio Yodaca
灰を踏む者たち

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薄い壁の向こう

 アイリス・トレントが差し出した書類の束は、表紙に「管区外活動報告(機密分類:B3)」と記されていた。


灰域(アッシュランド)浄化計画の実施要綱、改訂版です。内容が、大幅に変わっています」

 アイリスの声は低く、いつもの淡々とした事務口調とは明らかに違っていた。受け取りかけた手を止めてリオンが情報参謀の顔を見上げると、彼女は目を伏せていた。

 リオンは表紙をめくった。


 最初の数ページは見覚えのある内容だった。集落の編入、市民IDの付与、インフラ整備、医療と教育の提供。字面を追う限りは慈善事業のようにすら読める。リオンの指はページをめくる速度を緩めずに進んでいく。


 その指が止まった。


 「保護民編入手続き」という表題。住民の年齢と健康を調べ、14歳以下の子供に「適性検査」を行う。適性の内容はどこにも書かれていないが、合格した子供は「特別育成プログラム」に移されるとある。

 慈善の文面の数ページ先にこれが平然と並んでいる。同じ書類の中で、同じ官僚の手で書かれた同じ事務的な文体で。その温度差に、リオンは紙を持つ手が硬くなるのを感じた。検査の内容が書かれていないのは書けないからだ。書けば何をしているのかがはっきりしてしまうから。

「アイリス。この『適性検査』は」

冴覚(さいかく)です」

 アイリスの声が更に低くなった。

「合格した子供は、軍事施設に移送される。その先は……書類には、はっきりとは書かれていません。ですが、おそらく、グレイウォーター」

 グレイウォーター。その名を聞いた瞬間、リオンの脳裏でリーヴが食堂で箸を落とした音が鳴った。リーヴが鍛え上げられた場所であり、かつて自分も同期として過ごした場所。あそこで何が作られているのかをリオンは知っている。


 リオンは書類を閉じ、指先が白くなるほど表紙を握りしめた。

「……なぜ、これを私に」

 声が掠れた。アイリスはしばらく答えなかった。

「あなたなら、と思ったからです。少尉は、灰域(アッシュランド)を見てきた。あの人たちを、ただの『保護民』だとは思っていない。違いますか」

 図星だった。リオンは何も言えなかった。アイリスは一礼して執務室を出ていく。彼女もまたこれを持ち出した時点でもう後戻りできない場所に立っているのだ。その背中がそれを物語っていた。


「住民再配置の実態は……子供の、回収です」

 アイリスの声には僅かな震えがあった。この情報を持ち出すこと自体が参謀の立場では危険なはずだが、それを承知で彼女はここに来たのだ。

 リオンは目を閉じた。

 リーヴの左手が浮かぶ。食堂で箸を落とす瞬間。触覚を失い始めたあの指先。



 * * *



 リオンは執務室を出て本部棟の廊下を歩いた。

 清潔な廊下と白い光。すれ違う士官の敬礼に機械的に返す。だが内ポケットに無いはずの書類の中身が頭から離れなかった。父の部屋が近づくほど足が重くなる。引き返したいという思いを、一歩ごとに踏み潰しながら歩いた。


 父の執務室は本部棟の最上階にあった。扉をノックすると、「入れ」という短い声が返る。


 ケネス・アスフォードは窓際に立っていた。背筋の伸びた背中。窓の外にはフォートレスの街並みが広がり、整然とした街路を灰青色の汎殻(はんかく)が巡回している。


「何の用だ」

灰域(アッシュランド)浄化の、本当の目的を知っています」


 ケネスが振り向いた。紺色の目がリオンを射抜く。自分と同じ色の瞳なのに、その奥にあるものは昔から一度も読めたことがなかった。


「アイリスか」

「出所は関係ありません。事実です。浄化計画の裏に、冴覚(さいかく)を持つ子供の回収プログラムがある。あの人たちを管区に組み込むふりをして、子供を兵器にする」

「お前の正義感は」

 ケネスの声が低くなった。

「この家じゃ、通らん」


 リオンは唇を噛んだ。父の前に立つといつもこうだ。十八になってもこの人の紺色の目に見据えられると体の芯が竦む。言うべきことは決めてきたはずなのに声がうまく出ない。父に認められたいという子供じみた思いがいまだに胸のどこかに残っており、それが自分でも嫌だった。こんな計画を進める人間に、なぜまだ。

 ケネスは窓に向き直った。

「人材だ。冴覚(さいかく)を持つ操手(そうしゅ)がいなければ、グランヴェルトには勝てん。灰域(アッシュランド)の人材を放置すれば、他の統治機構体(とうちきこうたい)に取られる。それだけのことだ」

「子供を、兵器にするんですよ」

「安全保障の論理だ。善悪の話じゃない」

 言い終えると、ケネスは一瞬だけ窓の外から目を逸らした。論理ではない何かがその横顔をよぎった気がしたが、それはすぐに消えた。


 リオンは黙るしかなかった。父の言葉に言い返す言葉が見つからない。口を開きかけては閉じる。セルヴィスが弱れば管区の市民が危うくなるというのも嘘ではないのだ。だからこそ何も言えない。


「報告は以上か」


 報告。それで終わりだった。父にとって今のやり取りはただの部下からの報告に過ぎない。実の子が初めて真っ向から立てついたことなど欠片も意に介していない。その揺るがなさが何より恐ろしかった。

「……はい」


 リオンは踵を返した。

 扉に手をかけた時、背中にケネスの声が追いかけてきた。


「リオン」


 振り向かない。


「お前の友人が灰域(アッシュランド)にいることは、知っている」


 呼気が気管でつっかえ、ノブを握る手が汗で滑る。カイが。言い返そうにも干からびた喉からはかすれた息しか出てこない。振り返ろうとして首の筋を引きつらせ、奥歯が痛むほど顎を強張らせて踏みとどまった。粟立つ足を誤魔化すように扉を押し開けると、もつれた靴音が廊下へ無様に散っていった。



 * * *



 自室に戻った。

 狭い士官用個室。ベッドと机と、壁に掛かった第三機装師団の紋章。扉を閉めると廊下の喧騒が遠のき、急に静かになった。リオンはしばらく扉に背を預けたまま動けなかった。父の最後の一言がまだ耳に残っている。お前の友人が灰域(アッシュランド)にいる。あれは警告だ。下手に動けばカイを巻き込む。

 ようやく机に座り、灰域(アッシュランド)の地図を広げた。


 指先がラストヘイムの位置を辿る。カイの集落。あの砂埃だらけの、つぎはぎだらけの、それでも人が笑っていた場所。ポラリスが不時着して行き倒れかけた自分をあの集落が拾ってくれた。敵だと知りながら飯を分けてくれた。あの時に見たものを、リオンはまだ忘れられずにいる。


 あの集落の子供たちが選別される。冴覚(さいかく)があるかないかで人生が分かれる。

 砂埃の中で笑っていたあの子供たちの顔が浮かぶ。名前も覚えている子がいる。あの子のうちの誰かがリーヴと同じ指になる。そう考えると、地図のインクの上を辿る指が止まった。


 軍服の襟に触れる。灰青色の布地。セルヴィスの色。ずっと当たり前に着てきたこの色が、指先にやけに重く感じられた。


 ラストヘイムの点をもう一度なぞる。その東にストーンクロス、南にアイアンウェル。点は点のままだ。それをどう繋げばいいのかまだ何も分からない。何もできないかもしれないが、それでも見なかったことにはもうできなかった。


 リオンは地図を折り畳み、軍服の内ポケットに押し込んだ。胸に触れる紙の感触がほんの少しだけ重かった。


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