バートンの天秤
二度目のバートンの執務室は前に来た時とは空気が違っていた。
前回は皿にストーンクロス・リンゴが並んでいたが、今日は机の上に地図が広げられているだけだ。バートンの顔つきもあの底の知れない微笑みよりいくらか引き締まって見える。何かよくない知らせがあったのだと、カイは入ってすぐ察した。
手書きの地図。灰域の集落や交易路に赤と青の書き込みが散っている。
「事態が動いた」
バートンが言った。前回の余裕は声から消えていた。指が地図の上を迷いなく一点に滑る。
「セルヴィスの偵察隊が、もう灰域の南部に入っている。集落を一つずつ調べて回っている。位置、人口、武装の有無。次に来るのは、制圧だ」
カイは地図を見つめた。ラストヘイムの位置に小さな点が打ってある。ただの点だ。だがその点の中にリックがいて、タリアがいて、ゲオルグがいる。マーサの焼くパンの匂いがあり、クレアの診療所がある。バートンにとっては地図上の小さな印でも、カイにとっては世界のすべてが詰まった場所だった。その点がセルヴィスの「制圧」の対象になる。背筋に冷たいものが走った。
「『保護』の名目で、住民を管区に編入する。その過程で、冴覚持ちを選り分けて、軍に取り込む」
ガルドが煙草の煙を吐いた。
「リーヴ・シェイドの製造ラインだな」
「その通りだ。リーヴは最初の成功例だが、最後じゃない。セルヴィスは、次のリーヴを欲しがっている」
カイの拳が膝の上で握られた。リーヴ・シェイドの顔が浮かぶ。あの男と同じ道を次の子供たちが歩かされる。
* * *
「セルヴィスだけじゃない。グランヴェルトも、東から先遣部隊を入れている。目的は違う。連中が欲しいのは、灰域に眠る旧世界の資源と、それを扱える技術者だ。鋼城とかいう化け物を、完成させるためにな」
鋼城。ガルドから断片的に聞いたことがある。集落がまるごと収まるような移動要塞型の鉄殻。一機で国と戦争ができるという旧世界の悪夢。
「あれを動かすには、大勢の鋳脈者がいる。人間を燃料にして動く装置だ」
部屋が静かになった。
「クレスタは」
ガルドが聞いた。
「中立を装って、両方に武器を売ってる。どっちが勝っても損をしない位置にいる」
バートンは苦笑した。元クレスタの人間がクレスタの手口を語っている。その口元が一度だけ歪んだ。
* * *
その時、机の上の通信機が鳴った。
バートンが受話器を取る。雑音混じりの声が部屋に低く漏れた。ずいぶん遠い場所からの通信らしい。
「コンラッドだ」
名乗りを聞いてバートンの表情がさらに引き締まった。カイとガルドに向かって小さく頷く。聞いていていいという合図。
「バートン、南の状況は悪化している。セルヴィスの偵察隊がアイアンウェルの50キロ南まで来た。うちの見張りが足跡を確認した。鉄殻の足跡だ。汎殻。3機以上」
コンラッド・ナルミ。アイアンウェルの長だとバートンが短く言い添えた。しゃがれた疲れの滲んだ声だった。
「分かった。ストーンクロスからは今すぐ動けない。だが、情報は共有する。偵察隊の動きを追跡してくれ」
「やっている。だがバートン、もう時間がないかもしれん。連合の話を急がなければ。うちの集落だけじゃ、セルヴィスの正規部隊は止められん。お前のところも同じはずだ」
「分かっている。急いでいる。だが、旗印がいる。それがなければ、どの集落も首を縦に振らん」
コンラッドの通信に沈黙が挟まった。雑音だけがしばらく流れる。
「……テオの息子がそちらに来ていると聞いた」
「ああ。来ている」
「使えるのか」
使えるのか。物のように言われた。カイは思わず受話器のほうを睨んだ。顔も知らない男が自分を「使える駒」かどうかで値踏みしている。腹の底がじわりと熱くなる。だがここで何か言ったところで、子供が騒いでいるとしか思われないだろう。カイは奥歯を噛んで黙っていた。
「まだ分からん。だが、可能性はある」
通信が切れた。バートンが受話器を戻し、カイを見た。その目が品定めをするように一度だけ細くなった。
* * *
「聞いたな」
バートンが言った。前回とは声の温度が違った。
「前は、無理強いはしないと言った。だが、状況が変わった。コンラッドの言う通り、もう時間がない。灰域がまとまらなければ、一つずつ潰される。そのためには、旗印がいる」
カイは黙っていた。バートンの言う「旗印」が自分のことだと分かっている。前回と同じ話だ。だが、声の切迫だけが前回と違っていた。
「君がここにいるだけで、人は集まる。テオの息子がストーンクロスにいる。その噂は、もう灰域中に広まり始めている。君が望もうと、望むまいとな」
「……俺は、旗になりたくて来たんじゃない」
「分かっている。だが旗というのは、なりたくてなるものではない。周りが担ぎ上げるものだ」
穏やかな声なのに丸め込まれている気がした。バートンが何を考えているのかカイには読めない。ただ、この男はこの男なりに本気で灰域のことを考えている。それだけは伝わってきた。
「バートンさん」
ガルドが口を開いた。煙草を灰皿に押しつけ、バートンを真っ直ぐ見た。
「この子は、親父を探しに来たんだ。それが一番だ。旗だの連合だのは、大人が考えろ」
ガルドの声にはいつもの飄々とした響きがなかった。カイをかばっているのだ。それが分かって、カイは少しだけ息が楽になった。さっきから自分の頭の上で自分のことが勝手に決められていく感覚があった。ガルドの一言がその流れを一度堰き止めてくれた。
バートンはガルドを見た。二人の目が交差する。
「……ガルド。君もテオの相棒だった男だ。君の名前も、灰域では重い」
「俺は技匠だ。政治はやらん。鉄をいじってるほうが、性に合ってる」
「だろうな」
バートンが微笑んだ。今度の微笑みには計算が薄かった。
「リントは君を認めている」
カイは顔を上げた。あの不機嫌な男の名がここで出るとは思わなかった。
「口では認めないだろうがな。あの子が認める相手は、少ない。だが、君とやった模擬戦のあと、防衛隊の連中に『あいつは英雄の息子じゃない、ちゃんとした操手だ』と言って回ったらしい。あいつなりの、最大の賛辞だ」
カイは何と言っていいか分からなかった。あの引き分けの一手をリントはちゃんと見ていた。英雄の息子としてではなくカイ個人として。その事実が、さっきまでの「使える駒」という言葉で冷えた胸を少しだけ温めた。
窓の外で夕陽が丘陵の向こうに沈んでいく。通りを飴を貰ったらしい子供が一人駆け抜けていった。昨日市場で見たのと同じ光景だ。
カイは東の空を見た。濃い闇に沈んでいく父のいる方角。
旗印になれという誘いはまたしてもひどく甘かった。前に一度その響きに酔いかけた。あのときの自分への吐き気がまだ喉の奥に張りついている。二度目だというのに、心のどこかがその甘さに反応している。情けない。
カイはざらついた唾を飲み下し、窓枠に手をついた。指先に体重を乗せる。硬い木目が爪を押し返してきた。逃げるという選択肢だけはいつの間にか頭から消えていた。




