虫の知らせ
理由のない確信が、カイの体を動かした。
廃墟群の奥は、ラストヘイムの住民でも滅多に踏み込まない場所だ。
崩れかけた旧世界の建物が折り重なり、鉄骨とコンクリートが牙のように突き出している。足元は瓦礫だらけで、錆びた金属片が靴底を突く。光は天井の隙間から差し込むだけで、薄暗い通路が奥へ奥へと続いている。
カイとリックは、この区画の廃材回収に来ていた。
「カイ兄、ここ入れるよ」
リックが狭い隙間を指差した。大人が入れない幅だ。リックの小柄な体なら、横向きに滑り込める。
「何が見える」
「配管の束。銅線がまだ残ってる。あと、なんか四角い箱」
「箱は触るな。先に配管を出せ」
リックが隙間に体を滑り込ませ、配管を引っ張り出した。銅線が酸化して緑色になっているが、磨けば使える。カイは受け取った配管の重さを手で量り、品質を確かめた。
作業は順調だった。
リックが狭い場所を漁り、カイが選別する。使えるものとそうでないものを分け、布袋に詰めていく。廃墟の中は埃っぽく、鉄錆の粒子が喉の奥を刺す。カイはゴーグルを下ろし、口元を布で覆った。
そのとき、カイの体が凍りついた。
前触れはなかった。
音も、匂いも、視覚的な変化もない。ただ、体の奥底で何かが叫んだ。言葉ではない。意味を持たない衝動だ。全身の筋肉が一斉に硬直し、心臓が跳ね上がった。
最初に感じた、あの不安と同じだ。だが今回は、もっと鋭い。もっと切迫している。
「止まれ」
カイはリックの腕を掴んだ。声が自分のものとは思えないほど低かった。
リックが目を丸くした。「え、なに」
「動くな」
2秒後、頭上で金属の軋む音がした。
鉄骨が重力に負けて折れる。瞬間的に、コンクリートの塊と錆びた鉄骨の束が落下した。二人がいた場所を直撃する。地面が揺れ、粉塵が爆発するように舞い上がった。
カイはリックを抱えて2メートル後方に跳んでいた。いつ動いたのか、自分でも分からない。気づいた時には、リックの首根っこを掴んで後ろに引き倒していた。
粉塵が収まるまで、二人は動けなかった。
カイの心臓が喉の奥で暴れている。肺が痛い。ゴーグルが曇って視界がない。
リックの声が、掠れていた。
「カイ兄……なんで分かったの」
カイは答えられなかった。分かったわけではない。ただ「何かがおかしい」と感じただけだ。音が聞こえたわけでも、鉄骨の歪みが見えたわけでもない。体が、動いた。勝手に。
「勘がいいんだね、カイ兄」
リックは無邪気に言った。だがカイ自身は、自分の感覚に困惑していた。あれは勘ではない。もっと深い場所から来た何かだ。体の全てが「危険だ」と叫んでいた。その理由が分からない。
* * *
帰り道は、旧世界の排水路を通った。
天井の低いコンクリートの通路が、集落の地下を縫っている。旧世界の技術者が等間隔に打ったボルトが、壁面にまだ残っていた。30年以上前の工事だが、ボルトの精度は驚くほど正確だ。カイは子供の頃からこの通路を使っている。
鉄殻が通れないサイズの通路だ。幅は大人二人が並べる程度で、高さは頭上に拳一つ分の余裕しかない。だが人間にとっては安全な道だ。崩落の危険が少なく、地上の瓦礫を避けて集落まで真っ直ぐ戻れる。
リックが排水路の壁を触りながら歩いていた。
「ここのコンクリート、全然崩れてないね」
「旧世界のインフラは頑丈だ。地上の建物は戦争で壊されたが、地下は残ってる」
「すごいなあ。こんなの、今は作れないよね」
カイは頷いた。灰域の技術で、これだけの精度のコンクリート工事はできない。旧世界の遺産が、今も灰域の住民を守っている。
* * *
作業場に戻ったカイは、ガルドに廃墟での出来事を話した。
ガルドは赤葉の煙を吐きながら、黙って聞いていた。カイが話し終えると、長い沈黙が落ちた。
ガルドの手が、工具を置いた。煙草が口元から離れた。
「冴覚、という言葉を聞いたことがあるか」
カイは首を横に振った。聞いたことのない言葉だった。
「冴覚」
ガルドが繰り返した。その声には、いつもの飄々とした軽さがなかった。
「何だ、それは」
ガルドは答えなかった。赤葉に火をつけ直し、深く煙を吸った。吐き出した煙が天井に昇っていく。
「いずれ話す。今はまだいい」
また同じ言葉だ。工具箱の中の金属部品の時と同じ、「まだ早い」。
「ガルド」
「なんだ」
「俺の中で、何が起きてるんだ」
ガルドはカイの目を見た。飄々とした表情の奥で、何かが揺れていた。それはあの日、工具箱を閉じた時に見えた光と同じだ。警戒でも怒りでもない。もっと深い何か。後悔に似た、重い感情。
「お前は自分の体を信じろ。体が止まれと言ったら、止まれ。それだけでいい」
それ以上は何も言わなかった。
* * *
夜、カイは眠れなかった。
毛布の下で、自分の手を見つめていた。リックの腕を掴んだ手。その手は、脳が命令する前に動いていた。
あの瞬間、確かに「何か」が聞こえた。音ではない。匂いでもない。視覚情報でもない。五感のどれにも分類できない感覚が、体の奥底から湧き上がって、全身を貫いた。
体の全てが「危険だ」と叫んでいた。
自分の中に、自分でも知らない何かがある。
窓の外は暗い。灰色の闇の中に、鉄殻の残骸のシルエットが浮かんでいる。風が吹いて、廃材の壁が僅かに軋んだ。
カイは目を閉じた。冴覚。聞いたことのない言葉が、頭の中で回り続けていた。ガルドは知っている。何を知っていて、何を隠しているのか。
答えは出なかった。
だが眠りに落ちる直前、カイは一つだけ確かなことを感じていた。
あの力は、いずれまた現れる。




