薄い壁の向こう
第2部「灰を踏む者たち」。リオン視点。
アイリス・トレントが持ち込んだ書類の束は、表紙に「管区外活動報告(機密分類:B3)」と記されていた。
鉄殻の操縦桿を握ったことのない女が、戦場の資料を運ぶ。それがセルヴィスの情報参謀という仕事だった。リオン・アスフォードは執務室の椅子に座ったまま、書類を受け取った。
「灰域浄化計画の実施要綱、改訂版です。内容が大幅に変わっています」
アイリスの声は低く、抑えた調子だった。いつもの事務的な口調とは違う。何かがある。
リオンは表紙をめくった。
最初の数ページは見覚えのある内容だった。灰域の集落を管区に編入し、住民に市民IDを付与する。治安維持のために汎殻部隊を常駐させる。インフラを整備し、医療と教育を提供する。字面だけを読めば、慈善事業のようにすら見えた。
問題は、その先にあった。
「保護民編入手続き」という表題の付いた章。住民の年齢・健康状態を調査し、14歳以下の子供に「適性検査」を実施する。適性の内容は明記されていない。だが検査に合格した子供は「特別育成プログラム」に移行する、と書かれていた。
リオンは紙を持つ手が硬くなるのを感じた。
「アイリス。この『適性検査』は」
「冴覚です」
アイリスの声が、更に低くなった。
「浄化計画の裏に、冴覚の素養を持つ子供の選別プログラムが組み込まれています。合格した子供は、管区の軍事施設に移送される。その先は……グレイウォーター基地」
グレイウォーター。リオンは聞いたことがあった。セルヴィスの東部管区にある閉鎖区域。公式には「特務訓練施設」とされている。リーヴ・シェイドが少年時代を過ごした場所だ。
リオンは書類を閉じた。
指先が白くなるほど、表紙を握りしめていた。
「住民再配置の実態は、子供の回収です」
アイリスが言った。その声に、僅かな震えがあった。
「灰域の集落を潰して住民を管区に組み込み、その過程で冴覚の素養がある子供を選び出す。そしてリーヴ・シェイドと同じ道を歩ませる。鋳脈を施し、兵器にする」
リオンは目を閉じた。
リーヴの左手を思い出した。食堂で箸を落とす瞬間。触覚を失い始めた指先。あれと同じことを、次の世代の子供たちにしようとしている。
* * *
リオンは執務室を出て、本部棟の廊下を歩いた。
フォートレスの廊下は清潔で、蛍光灯が白い光を均等に撒いている。すれ違う士官が敬礼する。リオンは機械的に返した。靴音が硬質な床に響く。
父の執務室は、本部棟の最上階にあった。
扉をノックする。「入れ」という短い声。
ケネス・アスフォードは、窓際に立っていた。背筋が真っ直ぐに伸びた背中。白髪交じりの短い髪。窓の外にはフォートレスの街並みが広がっている。整然とした街路。パトロールする汎殻の灰青色の影。秩序という名の檻。
「何の用だ」
「灰域浄化の本当の目的を知っています」
ケネスは振り向いた。紺色の目が、リオンを射抜く。父と同じ色の瞳。だが父の目には、リオンにはない種類の冷たさが宿っている。
「アイリスか」
「出所は関係ありません。事実です。浄化計画の裏に、冴覚を持つ子供の回収プログラムがある。あの人たちを管区に組み込むふりをして、子供を兵器にする」
「お前の正義感は」
ケネスの声が低くなった。
「この家では贅沢品だ」
リオンは唇を噛んだ。
ケネスは窓に向き直った。灰青色の街を見下ろしながら、続けた。
「セルヴィスの安全保障は、人材の確保に懸かっている。冴覚を持つ操手がいなければ、グランヴェルトの銘殻に対抗できない。灰域にいる潜在的な人材を放置すれば、他の統治機構体に先を越される」
「それは——」
「安全保障の論理だ。善悪の話ではない」
リオンは黙った。
父の言葉には、否定しきれない論理がある。セルヴィスが弱体化すれば、管区の市民が危険にさらされる。強くあるために、犠牲を許容する。その論理は、壊せない。壊せないからこそ、苦しい。
「報告は以上か」
「……はい」
リオンは踵を返した。
扉に手をかけた時、背中にケネスの声が追いかけてきた。
「リオン」
振り向かなかった。
「お前の友人が灰域にいることは、知っている」
心臓が跳ねた。だが振り向かない。扉を開け、廊下に出た。靴音だけが、答えの代わりに響いた。
* * *
自室に戻った。
狭い士官用個室。ベッドと机と、壁に掛かった第三機装師団の紋章。リオンは机に座り、灰域の地図を広げた。
指先が、ラストヘイムの位置を辿る。カイの集落。あの砂埃だらけの、つぎはぎだらけの、それでも人が笑っていた場所。
あの集落の子供たちが、選別される。冴覚があるかないかで、人生が分かれる。
「あの人たちを、もう一度見捨てるわけにはいかない」
声に出した。自分の声を、自分で聞くために。
軍服の襟に触れた。灰青色の布地。セルヴィスの色。この服を脱ぐ日が、近づいている気がした。
地図の上に、ラストヘイムの点がある。その東に、ストーンクロス。その南に、アイアンウェル。点と点が、線で繋がる。灰域の集落の位置を、リオンは一つずつ指で追った。
この人たちを守りたい。守る方法を、まだ知らない。だが知らないことは、何もしない理由にはならない。
リオンは地図を折り畳み、軍服の内ポケットに入れた。胸に触れる紙の感触が、ほんの少しだけ、重かった。




