バートンの天秤
バートン・セオの執務室は、夕暮れの光で満たされていた。
窓の外にストーンクロスの街並みが広がり、石壁の向こうに灰色の平野が見える。夕陽が雲の隙間から差し込み、バートンの机の上に長い影を作っていた。
バートンが地図を広げた。
手書きの地図。灰域の主要集落、交易路、水源地、旧世界の遺構。全てにバートンの書き込みがある。セルヴィスの前進基地の推定位置が赤で、グランヴェルトの偵察隊の目撃情報が青で記されている。
「現状を整理しよう」
バートンの声は穏やかだったが、指は地図の上を正確に動いた。元管区長の手つき。情報を視覚化し、共有し、判断を求める。政治家の手つきだ。
「セルヴィスの浄化計画。第一段階は情報収集。偵察隊が灰域南部に入っている。集落の位置、人口、武装の有無。全て調べている」
カイは地図を見つめた。ラストヘイムの位置に小さな点が打ってある。
「第二段階は外縁部の制圧。小規模な集落から順に、セルヴィスの管理下に置いていく。『保護』という名目で住民を管区に編入する。その過程で冴覚の素養がある人間を選別し、軍に取り込む」
ガルドが煙草の煙を吐いた。
「リーヴ・シェイドの製造ラインだな」
バートンが頷いた。
「その通りだ。灰域の孤児を回収し、訓練し、鋳脈を施し、兵器にする。リーヴは最初の成功例だが、最後ではない。セルヴィスは次のリーヴを求めている」
カイの拳が膝の上で握られた。
* * *
「グランヴェルトも動いている」
バートンが地図の別の場所を指した。グランヴェルト管区の東境、アッシュゲートの付近。
「先遣部隊を送り込んでいる。目的はセルヴィスとは違う。グランヴェルトが求めているのは、鋼城の完成に必要な資源と技術者だ。灰域にはアルマナック機の残骸が眠っている。旧世界の合金が手つかずで残っている場所もある。グランヴェルトはそれを回収したい」
「鋼城」
カイはガルドから断片的に聞いた名前を口にした。
「移動要塞型の鉄殻だ。全長は数キロメートル。1機で国と戦争ができる」
バートンが頷いた。
「そして、その鋼城を動かすために24人の鋳脈者が必要だ。人間を燃料にする装置だよ」
部屋が静かになった。夕陽が机の上を這い、影が伸びていく。
「クレスタはどうだ」
ガルドが聞いた。
「中立を装っている。だが両者に武器を売り、同時に灰域からも利益を吸い上げている。二つの錨、というやつだ。二つの勢力に同時に利益を約束し、どちらが勝っても損をしない位置を確保する」
バートンは苦笑した。元クレスタの人間がクレスタの手口を語っている。その苦笑に、自嘲と怒りが混じっていた。
* * *
通信機が鳴った。
バートンが受話器を取った。雑音混じりの声。遠い場所からの通信だ。
「コンラッドだ」
バートンの表情が引き締まった。カイとガルドに向かって小さく頷く。聞いていていい、という合図。
「バートン、南の状況は悪化している。セルヴィスの偵察隊がアイアンウェルの50キロ南まで来た。うちの見張りが足跡を確認した。鉄殻の足跡だ。汎殻。3機以上」
コンラッド・ナルミ。アイアンウェルの長。バートンと共に灰域連合の構想を進めている南の柱。
「分かった。ストーンクロスからは今すぐ動けない。だが、情報は共有する。偵察隊の動きを追跡してくれ」
「やっている。だがバートン、もう時間がないかもしれん。連合の話を急がなければ」
「急いでいる。だが旗印がいる」
コンラッドの通信に沈黙が挟まった。
「……テオの息子がそちらに来ていると聞いた」
「ああ。来ている」
「使えるのか」
「まだ分からん。だが、可能性はある」
通信が切れた。バートンが受話器を戻し、カイを見た。
* * *
「聞いたな」
バートンが言った。
「セルヴィスは来る。グランヴェルトも来る。灰域がまとまらなければ、個別に潰される。だがまとまるには旗印がいる」
カイは黙っていた。バートンの言う「旗印」が自分のことだと分かっている。テオ・セヴァルの息子。灰域の英雄の血縁。その名前が、人を動かす力を持つ。
「カイ。お前に無理強いはしない。だが事実を伝えておく。お前がここにいるだけで、人は集まる。テオの息子がストーンクロスにいるという噂は、もう灰域中に広まり始めている。お前の意思とは関係なく」
「……俺は旗になりたくて来たんじゃない」
「分かっている。だが旗は、旗になりたくてなるものじゃない。周りが担ぎ上げるものだ」
バートンの声は穏やかだったが、その穏やかさの裏に、政治家の冷徹な計算があることをカイは感じた。バートンはカイを利用したいのだ。だがそれは悪意ではない。灰域を守るための手段として、テオの名前を使いたい。その計算が、バートンの「正しさ」だった。
「バートンさん」
ガルドが口を開いた。煙草を灰皿に押しつけ、バートンを真っ直ぐ見た。
「この子は、親父を探しに来たんだ。それが一番だ。旗だの連合だのは、大人が考えろ」
バートンはガルドを見た。二人の目が交差した。長い視線の交換。
「……ガルド。お前もテオの相棒だった男だ。お前の名前も、灰域では重い」
「俺は技匠だ。政治はやらん」
「だろうな」
バートンが微笑んだ。今度の微笑みには、計算が薄かった。
「リントはお前を認めている」
カイは顔を上げた。
「口では認めんだろうがな。あの子が認める相手は少ない」
窓の外で、夕陽が丘陵の向こうに沈んでいく。ストーンクロスの屋根に影が落ちる。通りを歩く人々の姿が、夕暮れの光の中でシルエットになる。
ここにも守るべきものがある。800人の暮らし。市場の匂い。子供たちの声。カラス商隊の飴。錆鉄キノコのスープ。灰域パン。ストーンクロス・リンゴ。
カイは窓の外を見た。東の空が暗くなっていく。父がいる方角。
旗にはなれない。だが、ここにいるだけで人が動くのなら。
少なくとも、逃げてはいけない。それだけは、分かった。
アルマナック・シリーズ -- 大崩落直前に開発された72機の軍用鉄殻原型フレーム。現在では再現不可能な旧世界の合金で造られている。




