鉄の師
旧世界の遺構は、丘の裏側に隠れていた。
コンクリートの壁が半ば地面に埋もれ、鉄骨が傾いて空を指している。何の建物だったのか、もう分からない。壁面に文字の痕跡が残っているが、風雨と時間が読めなくしていた。屋根はなく、内部に灰原草が茂っている。
カイとガルドは、ストーンクロス近郊の旧世界遺構を調査していた。テオの地図に印がある場所だ。テオが通った跡があるかもしれない。
遺構の奥に進んだ時、気配を感じた。
冴覚ではない。もっと単純な感覚。人の息づかい。焚き火の匂い。誰かがここにいる。
崩れた壁の向こうに、焚き火があった。
火の前に、一人の老人が座っていた。
痩せた体。白髪を後ろで短く束ね、深い皺が刻まれた顔。右手の甲から前腕にかけて、服の袖から火傷の痕が見えた。腰に旧式のコンバットナイフを差している。手入れが行き届いた古い刃物。軍用コートの色は褪せてカーキから灰色に近くなっている。
老人がカイの顔を見た。目を細めた。
「……テオの面影がある」
カイの足が止まった。
ガルドが老人を見て、足を止めた。煙草を口から外し、低い声で言った。
「シルヴァン」
* * *
シルヴァン・トーネ。
大崩落以前から鉄殻に乗る最古参の一人。テオに操縦の基礎を教えた師匠。
焚き火の前に三人が座った。シルヴァンは旧式の水筒から水を分けてくれた。金属の水筒は磨き込まれて光っていた。
「30年以上前のものだ。大崩落の前から使っている」
シルヴァンの声は低く、乾いていた。60年分の砂と風が、声にまで染みている。
「テオの息子か。名前は」
「カイ」
「カイ。テオがそう名づけたのか」
「ああ。……理由は知らない」
シルヴァンは焚き火を見つめた。炎が老人の顔に影を作る。
「テオは、俺の教え子だった。大崩落の頃、まだ少年だった。戦災孤児で、灰域を一人で放浪していた。マーサの学校に一時いたが、すぐに飛び出した。そいつを俺が拾った」
カイは黙って聞いた。父の少年時代を知る人間は、ラストヘイムにはマーサしかいなかった。ガルドはテオの傭兵時代からの付き合いで、それ以前を知らない。
「あの頃の鉄殻はまだ作業機械だった。穴を掘り、建物を壊し、瓦礫を運ぶ。俺は建設作業員として鉄殻を動かしていた。人を殺すための機械じゃなかった」
シルヴァンの目が遠くなった。
「テオに最初に教えたのは、操縦桿の握り方じゃない。足の置き方だ。ペダルの上に足を乗せる。爪先の角度、踵の位置、膝の曲げ方。そこが全ての基本だ。手で操縦桿を動かすのは誰でもやる。だが足が正しく置けなければ、機体は思った通りに動かない」
カイは自分の足を見た。テオから教わった操縦の基本。テオはシルヴァンから教わったのだ。
「テオは天才だった」
シルヴァンが言った。
「教えた瞬間に分かった。あの子は、鉄殻の中で生まれたような動きをした。操縦桿に触れる前から、機体の重心を感じていた。足を置いただけで、機体の姿勢を読んでいた」
* * *
「天才だったからこそ、戦場に呑まれた」
シルヴァンの声が変わった。穏やかさが消え、乾いた痛みが滲んだ。
「大崩落が始まって、作業用の鉄殻が軍事転用された。俺もテオも、操縦技術を買われて戦場に引きずり出された。俺は最初の戦闘で人を殺して、3日間何も食えなかった。テオは……テオは、黙って飯を食っていた。あの子は、恐怖を飲み込む術を知っていた。子供のくせに」
カイは息を呑んだ。少年だった父が、戦場で何を見たのか。
「才能ってのはな、呪いだ。できてしまうから、やめられない。テオは鉄殻に乗れば誰よりも強かった。だから戦場から離れられなかった。強い奴は必要とされる。必要とされれば、断れない。断らないから、また戦場に行く。その繰り返しだ」
シルヴァンはカイの目を見た。
「お前にも冴覚があるな」
カイは答えなかった。だがシルヴァンは答えを待たなかった。
「テオにもあった。あいつの反応速度は、冴覚なしでは説明がつかなかった。俺は冴覚という言葉を知らなかったが、テオの動きが人間離れしていることは分かっていた」
父が冴覚持ちだったこと。ネイサンも言っていた。自分と同じ力を持っていた父。
* * *
シルヴァンは古い操縦のコツを教えてくれた。
「鉄殻は手足の延長だ。操縦桿を握る手の力を抜け。機体に体重を預けろ。お前の体が前に傾けば、機体も前に傾く。そういう感覚で乗れ」
素朴だが実践的な教え。冴覚や鋳脈とは無関係の、純粋な人間と機械の対話。シルヴァンは40年間、同じ残殻に乗り続けている。その経験が、言葉の端々に重みを与えていた。
「冴覚に頼るな。冴覚がなくても戦える操縦が基本だ。冴覚は上乗せだ。基本がなければ、上乗せは崩れる」
トワと同じことを言う。カイの周りの大人たちは、同じことを違う言葉で言う。基本を固めろ。特別な力に依存するな。
「いいか、鉄殻はもともと穴を掘るための機械だ。人を殺すために作られたんじゃない。お前がいつかこの機械を降りる時、そのことを忘れるな」
カイはその言葉を胸に刻んだ。
* * *
別れ際、シルヴァンが言った。
「テオは東に行った。最後に俺が見たのは7年前。旧ポーランドの鉄道駅の廃墟だった。あいつは何かを探していた」
東。テオの足跡が、また一つ見えた。
「何を探していたか、分かるか」
「分からん。だが急いでいた。追われているようでもあった」
シルヴァンは杖代わりのコンバットナイフを地面に突いて立ち上がった。老いた体だが、背筋は伸びていた。
「行け、カイ。お前の親父は強い男だった。だが強いだけでは守れないものがある。それを、お前は知っているはずだ」
カイは頭を下げた。シルヴァンは焚き火の前に戻り、旧式の軍用コートの襟を立てた。60年分の戦場を背負った老傭兵が、灰域の遺構の中で、一人、火を守っている。
東の空を見た。灰色の雲の向こうに、父がいた場所がある。7年前の父の足跡が、カイの足元に続いている。




