|灰域《アッシュランド》の市場
匂いが最初に来た。
香辛料の匂い、干し肉の匂い、革の匂い、錆の匂い、人の汗の匂い。それらが入り混じってストーンクロスの市場区画を満たしていた。むせ返るような生き物の匂いだった。ラストヘイムの市はこんなに濃くなかった。人が少なく物も少なく、匂いも薄かった。ここでは匂いそのものが町の豊かさを語っているようだった。
カイは人混みの中を歩いた。市場は集落の中心にある石畳の広場に広がっている。露店がひしめき合い、通路は人ひとり通るのがやっとの場所もあった。肩がぶつかり、何度も足を踏まれかける。ラストヘイムではこれだけの人間が一か所に集まることなど、年に一度あるかないかだった。
布を売る露店の前では若い女が値切りに失敗してふくれっ面で去っていく。その隣には欲しそうに干し果物を眺めたまま、結局何も買わずに立ち去る男がいた。みなそれぞれの暮らしを抱えてここに来ている。
クレスタの行商人が黄色と茶色の混じった粉末を木箱に山盛りにして売っていた。朝の光の中でその色が妙に鮮やかに見える。嗅いだことのない舌を刺すような匂いがした。リーフ・スパイスというらしい。昔の大陸の南のほうの香りだとトワが教えてくれた。
「これを肉に振ると、灰域の干し肉が3倍美味くなる」
トワは一袋買った。革袋に詰められた粉末を鼻に近づけて匂いを嗅ぐ。普段は無表情なトワが、ほんの少し目を細めた。カイも倣って嗅いでみる。鋭くて、それでいてどこか温かい匂いに鼻の奥がつんとした。ラストヘイムにはこんな匂いのものは何もなかった。あそこにあったのは灰と鉄と芋の匂いだけだった。
同じ灰域でもこれだけ違う。ストーンクロスに来てからカイは何度もそう思わされている。自分の知っていた世界がいかに狭かったかと。
「いくらだった」
「干し肉2切れと交換。高いが、しばらく飯が楽しみになる」
ここでは金は使えない。トワが香辛料を干し肉二切れと交換したように、すべてが物と物のやり取りで回っていた。
武器商人の露店を覗くと弾薬が無造作に積まれていた。値札にはエール半樽と書いてある。人を殺すための弾が酒一杯分の感覚で並んでいた。ここでは命がこの程度の値なのか。カイはなんとなく目を逸らした。
* * *
市場の入口に武装した荷馬車が停まっていた。馬の代わりに改造したエンジンを積んでいる。荷台には鉄殻部品や食糧、薬品が山積みだった。横腹に黒い鴉の焼印が押してある。カラス商隊だ。ラストヘイムにもたまに来ていた。
子供たちが荷馬車の周りに群がっている。
商隊の男がポケットから飴を取り出して配っていた。あの飴だ。トワにもらって舌の裏が痺れるほど甘かったあれだ。子供の一人が頬を膨らませて嬉しそうに駆けていく。
ラストヘイムでもカラス商隊が来ると、子供たちが同じように駆けてきた。リックもタリアも。カイは飴を貰いには行かなかった。もうあの味は知っている。ただ子供たちの背中を少しのあいだ目で追った。
* * *
市場の奥に進んだ。
鍛冶屋の露店には、鉄殻の関節部品が並んでいた。中古だがよく磨かれている。カイは膝の軸受けを手に取った。左膝の、ジェロニモにやられた部品と同じ規格だ。
「それ、お前の機体に合うのか」
トワが覗き込んだ。
「合う。軸が少し太いが、ガルドなら削って合わせられる」
「持っただけで分かるのか」
「ガルドに教わった。重さと、指で回した時の遊びでな」
トワは眉を上げたが、それきり何も言わなかった。
軸受けは弾十発分だった。手放すのは惜しい。だが膝が戦闘中に折れれば命の値段のほうが高くつく。カイは自分にそう言い聞かせて弾と引き換えに軸受けを受け取った。それでも空になった弾倉のことを思うと、少し足取りが重くなった。
* * *
市場のはずれに古いラジオが置いてあった。
旧世界の真空管式ラジオを修理したもので、木製の筐体がひび割れている。ダイヤルは手動で、周波数を合わせると雑音の中から声が聞こえてきた。
「……セルヴィスの前衛部隊が灰域南部で移動を開始した模様。住民への被害は未確認。繰り返す。セルヴィスの前衛部隊が……」
焦土の声だ、と誰かが呟いた。どこの誰が流しているのかは誰も知らない。ラストヘイムでもガルドがたまにこいつにかじりついていた。
ラジオの前では一人の老人が皺だらけの顔を寄せ、目を閉じて雑音混じりの声に耳を傾けていた。
カイはラジオの前を通り過ぎた。セルヴィスの前衛部隊が動き出している。バートンの言った通りだ。この賑やかな市場のすぐ外で何かが確実に近づいてきている。それなのに市場の人々はいつも通り値切り、笑い、飯の心配をしている。その当たり前さがかえってカイの胸をざわつかせた。
* * *
市場を一周してカイはガルドの作業車に戻った。
ガルドは車の下に潜り込んで何かを直していた。油まみれのブーツの先だけが車体からはみ出している。市場の喧騒の中でもガルドはいつも通り機械を相手にしていた。こういう光景をカイは子供の頃から何度も見てきた。何が変わってもガルドが機体の下に潜っている姿だけは変わらない。それがなぜか少し安心できた。
カイが軸受けの部品を渡すと、油まみれの手が車体の下から伸びてきて受け取った。
「……合うが、わずかに太いな」
「分かるのか。持っただけで」
「当たり前だ。俺を誰だと思ってる」
ガルドが車の下から這い出てきた。煙草を咥えながら軸受けを指で回している。
「いい品だ。クレスタの二次加工品だろう。これくらいなら、削って合わせる」
ガルドの指が部品の表面を撫でた。指先だけで金属の中身まで見透かしているみたいだ。昔からそうだった。カイがどう頑張っても真似できないガルドの手だった。
トワが横から買ったばかりのリーフ・スパイスの袋を差し出した。
「飯に振れ。今夜は少しましな味になる」
ぶっきらぼうな差し出し方だった。だが自分のために買ったものをこうして分けるあたりに、トワなりの何かがあるのかもしれない。カイは出会った頃の刺々しかったトワを思い出した。少しずつこの人の輪郭が見えてきている気がする。
ガルドが袋を受け取り、匂いを嗅いだ。
「……懐かしい匂いだ。昔、アイゼンヴルストにこいつを振って食ったもんだ。俺も、テオもな。あいつは酔うたびに、もう一度あれが食いたいって言ってた。灰域じゃ、二度と手に入らねえのにな」
カイは黙って聞いた。父がガルドと並んで同じものを食っていた。その光景をカイは知らない。知らない父がまた一人増えていく。会ったこともない父の昔をこうして他人の口から拾い集めている。それが嬉しいようなもどかしいような、よく分からない気持ちだった。
人波の隙間から押し殺したような商人の声がカイの耳を打った。
「セルヴィスが来たら、ここも終わりだ。商売ができなくなる。管区に組み込まれたら、物々交換は違法になるからな」
商人は売れ残りのスパイスを木箱に戻した。
カイは足を止め、ゆっくりと背後を振り返った。さっき飴を貰って駆け出していった子供たちの細い背中が見える。煤けた天幕も、あの笑い声も。土ぼこりの舞う空気を吸い込むと、肺の底が痺れるように冷えた。




