味のない朝食
朝が来た。
ネイサンの小屋の板で半分塞がれた窓から、灰色の光が差し込んでいる。塞がれた板の隙間から細い光の筋が床に落ちていた。埃が光の中で舞っている。
カイは寝袋から体を起こした。床のコンクリートは冷たかったが疲労のおかげで眠れた。だが夢見は悪かった。何度もネイサンの震える指が出てきた。それが時々、顔も知らない父の手にすり替わる。目が覚めるたびに嫌な汗をかいていた。
隣でガルドが鼾をかいている。煙草の匂いが寝袋にまで染みていた。ガルドはいつも通りに見えた。だが本当にいつも通りなのか、カイにはもう分からなくなっていた。
台所で物音がした。
起き上がって見るとネイサンが朝食を用意していた。客に出すつもりらしい。味の分からない男が客のために飯を作る。その事実がなぜかカイの胸を締めつけた。
灰域パンと錆鉄キノコの粉末スープ。灰パンは薄く硬く、スープは茶色く濁って独特の苦味があった。
ネイサンは自分の分の灰パンを手に取り口に運んだ。咀嚼する動作は淡々としていた。表情がまるで変わらない。
カイは同じスープを口にした。苦い。舌に鉄の味が残る。向かいの男にはこの苦味すら届かないのだ。同じ食卓で同じものを食べているのに。そう思うとなぜか箸が重くなった。
* * *
食事の後、ネイサンが上着を着ようとした。
フード付きのコートのボタンを留めようとして指がコートの前で迷った。穴の在りかがうまく掴めないらしい。カイは思わず手を伸ばしかけて止めた。手伝われることをこの男が望むとは思えなかった。
やがてネイサンは手を下ろし、コートを前で合わせたまま歩き出した。
「……指先の感触が曖昧でな。ボタンの縁が、分からないんだ」
かつてエースと呼ばれた男がボタン一つ留められない。鉄殻を駆って戦場を生き延びた手が、布の穴に指を通すこともできない。カイはかけ損ねた手を握り直した。
ネイサンを手伝えなかった自分の手をカイはしばらく見ていた。何かしてやりたいのに何もできない。ラストヘイムの集落でもこういう無力感を覚えたことがあった。だがあのときより今のほうがずっと重い。鋳脈の代償は誰にも肩代わりできない。
ガルドが小屋の外で煙草を吸っていた。朝の光の中で煙が白く伸びる。
「鋳脈を作ったのは、俺の世代だ」
誰に言うでもない呟きだった。
「速く強くなれる。そう言って、若い奴に体を売らせた。壊れる体だと知っていて、だ。何人もな。ネイサンは、その中の一人にすぎん」
ガルドの声にはいつもの飄々とした響きがまるでなかった。
カイはガルドの横顔を見た。深い皺が刻まれた顔。暗い茶色の目が遠くを見たまま何も足さなかった。この横顔は前にも見た。父さんの話をしたあの時だ。
* * *
ネイサンが水を汲みに出た。
小屋から50メートルほど離れた場所に旧世界の水道管が露出している。水量は細いが飲める水が出る。ネイサンはバケツを片手にゆっくりと歩いていった。
カイは小屋の入口に立ちネイサンの背中を見ていた。
足を引き摺るような覇気のない歩調。そして時々、首が何かを確かめるように右へ振れる。右側を庇うような歩き方だった。
ガルドが隣に立った。
「あいつは旧世界の医療技術があれば治せたかもしれん」
「旧世界は壊れた」
「ああ。壊れた。そして壊した連中の中に、俺もいる」
カイはガルドを見た。ガルドの目はネイサンの背中を追っていた。
「ガルド。お前はネイサンの鋳脈に関わったのか」
長い沈黙があった。露出した水道管から水が一滴、また一滴と滴り落ちている。
「……直接は違う。手術をやったのは別の技匠だ。だが、リレー素子の設計は、俺の仕事だった。ネイサンの後頭部に埋まってるのは、俺が図面を引いた素子だ」
吸い込んだ空気が気道に張りついた。あの肉に食い込んだ部品を。毎日自分に飯を食わせてくれるこのガルドが。どんな顔を向ければいいのか分からなかった。掴みかかりたい衝動とその同じ手に生かされている事実が胃の奥でねじれる。カイはただ足元の地面を見ていた。
* * *
出発前。
ネイサンが小屋の入口に立ってカイを見た。左目だけの視線がカイの顔をじっと見つめた。
「お前、冴覚を持っているな」
どうして分かったのか。カイは一瞬身構えたが、否定はしなかった。もう隠す意味がなかった。
「同じ匂いがする。冴覚持ちには、独特の目の動きがあるんだ。俺にも、昔はあった」
ネイサンが苦く笑った。笑顔には力がなく、頬の筋肉が引き攣るように動いただけだった。
「ガルドが連れてくるのは、いつもそういう奴だ。何かを背負った奴をな」
ネイサンの声がふいに真剣になった。
「いいか、よく覚えておけ。冴覚持ちの鋳脈者は、俺の倍の速さで壊れる」
倍の速さ。
ネイサンは15年で全部を失った。その半分か。頭が勝手にそう弾いてカイは喉が詰まった。
父は何年あの力を使ったのだろう。消えたとき、体はどこまで壊れていたのだろう。
「ネイサン」
カイは小屋を振り返った。
「父を知っているか。テオ・セヴァルを」
ネイサンの苦笑が消えた。喉仏が一度だけ上下した。
「名前は知っている。会ったことはない。だが灰域じゃ、伝説だ。銘殻ケストレルの操手。英雄だよ」
ネイサンの声が低くなった。
「俺と同じだ。冴覚と鋳脈。違うのは、あの人にはまだ名前が残ってることだ。俺には、何も残らなかった」
カイは何も言えなかった。
名前が残る。それが何の慰めになるのだろう。英雄と呼ばれて体を壊し、消えた父。名前だけが灰域に残って当の本人はもういない。ネイサンの言う「違い」がカイにはむしろ同じことのように思えた。どちらも鋳脈に全部を持っていかれたのだ。
ネイサンは扉の枠に手をかけて体を支えた。震える手で。
「行け。お前の親父は東に行ったと聞いた。旧モスクワの方角だ。あの辺は危険だが、テオならそこを選ぶだろう。統治機構体の目が、届きにくいからな」
なぜそれを知っているのか。カイが訊く前にネイサンは続けた。
「灰域の操手なら、誰でも知ってる。テオ・セヴァルがどこへ消えたか。みんな、噂してるからな。英雄がどこで死んだのか、それとも生きてるのか」
死んだのか、生きてるのか。その言い方がカイの胸に小さく刺さった。誰も父の生死すら知らないのだ。
カイは黙って深く頭を下げた。
それから背を向けて歩き出す。何歩か進んで振り返ると、ネイサンは扉の前に立ったまま左目でカイを見ていた。瞬きもしない。その視線に射抜かれてカイは一瞬足を止めた。
小屋が遠くなる。ガルドの作業車のエンジン音が聞こえた。カイは残殻のコックピットに乗り込みハッチを閉める。計器の灯りが暗闇に浮かんだ。
操縦桿を握った。掌に革と金属の感触が来る。温度も、硬さも、汗の湿り気も、全部。
この手でまだ何でも触れる。それを今は確かめるように握った。カイは前を向いてエンジンを始動させた。東へ。父が向かったという旧モスクワの方角へ。




