ネイサンの小屋
ストーンクロスの南、まだ集落には入らず、石壁から300メートルほど離れた場所。旧世界のコンクリート製変電所の残骸を改修した、一人暮らしには広すぎる建物。壁に蔦が這い、窓の一つが板で塞がれている。入口の前に焚き火の跡があり、空の酒瓶が3本、地面に転がっていた。
ガルドが先に立って、扉を叩いた。
しばらく待った。風が砂を運んでくる。灰原草の穂が白く揺れている。
扉が開いた。
フード付きのコートを被った男が、半開きの扉の隙間から覗いた。青白い顔。頬がこけている。右目が半分閉じたまま開かない。
「……ガルド」
低い声だった。驚いてはいない。むしろ、来ることが分かっていたような静けさがあった。
「久しぶりだな、ネイサン」
ガルドの声は穏やかだったが、カイにはその穏やかさの裏に何かが張りつめているのが分かった。
* * *
小屋の中は暗かった。
窓の一つが板で塞がれているせいで、光は片側からしか入らない。旧世界の木製テーブルが一つ。椅子が二脚。棚には缶詰と乾燥食料が並んでいるが、量は少ない。壁に旧式のコートが掛かり、隅に寝袋が丸めてある。生活の匂いは薄い。ここで暮らしているというよりは、ここに留まっているだけのように見えた。
ネイサン・グレイは椅子に座り、テーブルの上にコップを置いた。
コップに遺灰酒を注ぐ。手が震えていた。右手の震えが特に顕著で、コップの縁に瓶の口が当たって甲高い音を立てた。液体が零れ、テーブルに小さな水溜まりを作った。ネイサンは拭かなかった。
「お前がここに来た理由は分かる」
ネイサンはガルドではなく、カイを見た。右目は半開きのまま。左目だけが、まだ生きている人間の光を保っていた。
「この子に見せに来たんだろう。鋳脈の末路を」
ガルドは無言で酒を注いだ。
* * *
鋳脈。
カイがその言葉を聞いたのは、この日が初めてだった。
ネイサンは淡々と語った。コップの遺灰酒を口に運ぶ。味がしないのだろう。飲む動作は機械的で、喉が動き、コップが戻り、また口に運ばれる。
「後頭部から首筋にかけて、生体合成リレー素子ってのを埋め込む。手術だ。頭を開けて、神経に線を繋ぐ。成功すれば、機体のセンサー情報が操手の感覚としてフィードバックされる」
カイは黙って聞いた。
「分かりやすく言えば、鉄殻の体を、自分の体のように感じられるようになる。装甲に弾が当たれば、自分の皮膚が叩かれたように感じる。脚が地面を踏めば、足の裏で土の硬さが分かる。背後の敵の接近を、背中で感じる」
ネイサンの声は平坦だった。説明している。自分の体に起きたことを、他人事のように。
「反応速度が跳ね上がる。計器を目で読んで判断するプロセスが消える。体で感じて、体で反応する。コンマ3秒から5秒の短縮。戦闘では、その差が命を分ける」
「……それの何が問題なんだ」
カイの問いに、ネイサンは左目でカイを見た。
「代償だ」
* * *
「機体が被弾すれば、操手に痛みが来る。装甲が砕ければ、骨を折られたような激痛が走る。腕が切り落とされれば、自分の腕が切断されたと脳が錯覚する。それでも操縦しなきゃいけない」
ネイサンはコップを置いた。テーブルの上に両手を広げた。右手は震えが止まらない。左手も、よく見れば指先が微かに揺れている。
「そして、長期使用で神経が壊れる。不可逆的にだ」
ネイサンが右手を持ち上げた。指先を顔の前にかざす。
「味覚は完全に喪失した。何を食っても味がしない。塩も砂糖も区別がつかない。右目の視野が上部3分の1欠けている。聴覚には常にノイズが入っている。静かな場所でも、ジーッていう音が消えない。指先の感覚は曖昧で、ボタンを留めるのに三度かかる」
カイは息を呑んだ。
目の前の男は、36歳だ。ガルドより8つ若い。だが顔はガルドより10年は老けて見える。体は痩せ、手は震え、目は半分閉じ、声は掠れている。
「鋳脈は借金だ」
ネイサンの声が変わった。自嘲でも説明でもなく、警告の声。
「体で払う借金。利息がどれだけかは、誰も教えてくれない。俺は21で借りて、36で全部取られた。味も、目も、手の安定も」
コップに手を伸ばした。指が滑り、コップが倒れた。遺灰酒がテーブルに広がる。ネイサンは拾おうとして、指先がコップの縁を掴めず、二度空を切った。三度目でようやく掴み、立て直した。
「でもな、借りた時は最高だった。世界が変わった。機体が自分の体になる。あの感覚を知ったら、戻れなくなる」
ネイサンはカイの目を真っ直ぐ見た。
「だから、知るな。知ったら欲しくなる」
* * *
小屋を出た。
空は暮れかけていた。灰色が鉄錆色に変わっていく。風が冷たい。
ガルドが煙草に火をつけた。マッチの炎が顔を一瞬照らし、消えた。煙が細く立ち上る。
「ガルド」
カイの声は低かった。
「ネイサンは、どこで鋳脈を受けたんだ」
「グランヴェルトだ」
「お前がいた頃の」
ガルドは煙草を吸い、煙を吐いた。長い沈黙があった。
「ああ。俺がいた頃のグランヴェルトだ」
それ以上は言わなかった。カイも聞かなかった。だが小屋の中のネイサンの言葉が、頭から消えない。
鋳脈は借金だ。体で払う借金。
父は、何を借りて、何を払ったのだろう。
カイは東の空を見た。暗くなりかけた地平線の向こうに、父の影を探した。何も見えなかった。




