語り部の教室
廃墟の教室で、老女は旧世界の記憶を語り、子供たちは知らない甘さを想像する。
マーサの教室は、廃墟の一角にあった。
コンクリートの壁に囲まれた小さな部屋だ。天井の一部が崩落しており、そこにトタン板を被せて雨を凌いでいる。窓はなく、旧世界の蛍光灯の残骸が天井からぶら下がっているが、とうに壊れている。代わりに獣脂の灯りが三つ、壁際に置かれていた。薄暗い部屋の中に、子供たちが7人座っている。
マーサ・ウィンターは教室の前に立ち、杖を黒板代わりの壁に当てた。
72歳。白髪を頭の上で丸く結い上げ、何枚も重ね着した古着の上に手編みのマフラーを巻いている。背筋が真っ直ぐに伸びた小柄な老女は、壁に灰色のチョークで文字を書いた。
「今日は算術の続き。前回の掛け算を覚えてるかい」
子供たちが声を揃えた。7かける8は56。9かける6は54。暗唱の声が狭い部屋に反響する。
カイは教室の入口に立って、その光景を眺めていた。
マーサの教室には、以前から時折顔を出している。自分が子供だった頃にも、ここで読み書きと算術を教わった。灰域に学校はない。マーサが旧世界の教科書の写しを使い、一人で続けている寺子屋だ。
「さて、今日は特別な授業をしよう」
マーサが杖を壁に立てかけ、子供たちの前に腰を下ろした。獣脂の灯りが皺だらけの顔を照らしている。
「昔の話をしようか。旧世界の話だ」
子供たちの目が変わった。
旧世界の話は、マーサの教室で一番人気の授業だ。
「昔、この大地には道路というものがあった」
マーサの声は穏やかで、低く、よく通る。
「アスファルトという黒い石を敷き詰めた道がどこまでも真っ直ぐに伸びて、人は鉄殻に乗らずに遠くまで行けた。自動車という乗り物があってね。鉄殻よりずっと小さい。人が四人座れるだけの箱に車輪がついて、道路の上を走った」
「鉄殻より速いの?」
「もっとずっと速い時もあったよ。でもね、戦うためのものじゃなかった。人を運ぶためのものだった」
子供たちがざわめいた。戦うためでない乗り物という概念が、灰域の子供には新鮮に映るらしい。
リックが手を上げた。
「マーサ婆ちゃん。ゼロ・デイ以前にはチョコレートが毎日食べられたって本当?」
マーサは微笑んだ。目尻の皺が深くなった。
「食べられたよ。甘くてね。口の中で溶けるんだ。今の灰域では想像もつかない味だった」
「キャンディより甘い?」
「比べものにならないよ。カラス商隊キャンディの十倍は甘い」
子供たちの目が丸くなった。リックは本気で悔しそうな顔をしている。
マーサの話は続いた。電気が夜を昼のように照らしたこと。蛇口をひねれば透明な水が出たこと。病気になれば白い部屋に行けば治ったこと。子供たちにとっては、おとぎ話と変わらない。だがマーサはそれを全て自分の目で見てきた。
* * *
授業が終わった後、マーサはカイを呼び止めた。
「ちょっとおいで」
教室の奥にある小さな棚から、マーサは古い帳面を取り出した。黄ばんだ紙に、丸い字で名前が書かれている。テオ・セヴァル。
「あんたの父さんはね、この教室の最初の生徒だったんだ」
カイは帳面を見つめた。父の字。見覚えがある。作業場に残されたメモ書きと同じ、癖のある丸い字だ。
「テオがここに来たのは10歳くらいだったかねえ。戦災孤児で、灰域をふらふら歩いてるところを拾った。字も読めなかった。算術も知らなかった。でもね」
マーサの目が遠くなった。
「よく笑う子だった。何が楽しいのか、いつもニコニコしてた。廃墟の中を走り回って、鉄屑を拾って、それを何かに見立てて遊んでた。あの子は、鉄屑の中に宝物を見つけるのが得意だった」
カイは黙って聞いていた。父が笑う姿を、カイはほとんど覚えていない。記憶の中のテオ・セヴァルは、いつも静かで、工具を握っていて、たまに不器用に肩を叩いてくれる大きな手だった。
「戦場がそれを奪った」
マーサの声が変わった。穏やかさの奥に、硬い何かが混じった。
「傭兵になって戻ってくるたびに、笑顔が減っていった。最後の頃は、あんたの前でだけ笑ってたよ」
カイの拳が、知らず知らずのうちに握り締められていた。
「あんたは笑い方を忘れるんじゃないよ」
マーサはカイの顔を見上げた。黒い目が、獣脂の灯りの中で光っている。相手の心を見透かすような、静かな鋭さ。
「親父さんの真似をする必要はない。あんたはあんただ」
カイは何も言えなかった。喉の奥に、言葉にならないものが詰まっている。頷くことしかできなかった。
* * *
教室の外に出ると、リックが残殻を遠くから眺めていた。
集落の外縁に置かれた、カイの残殻。寄せ集めの装甲板、錆苔のこびりついた関節、欠けた胴体装甲。まともな鉄殻とは呼べない代物だ。だがリックの目は、それを見つめて輝いている。
「カイ兄、あれっていつか動かしていいの?」
「お前にはまだ早い」
「でも鉄殻に乗りたい。強くなりたい」
無邪気な目だった。鉄殻は「格好いい」もの。戦闘は「凄い」もの。傭兵は「自由」な存在。それはラストヘイムの中から外を見ている子供の視点だ。
カイはその視線に、言葉にできない居心地の悪さを感じた。
リックは鉄殻の何を知っている。ガルドが溶接の後に酒を煽る理由を。クレアが鉄殻の話題になると声のトーンを変える理由を。父が帰ってこなかった理由を。何も知らない。知らないまま、あの目で鉄殻を見ている。
「リック」
「ん?」
「鉄殻に乗るのと、強くなるのは違う」
リックは首を傾げた。カイ自身、その言葉の意味を説明できなかった。ただ胸の奥で、何かがそう告げていた。
「よく分かんないけど、カイ兄が言うならそうなのかな」
リックは笑って、走っていった。カイはその背中を見送り、教室の方を振り返った。マーサはもう中に戻っている。
* * *
マーサが去り際に、いつもと違う声で呟いた。
カイが教室に工具を届けに戻った時のことだ。マーサは窓のない壁に背を預け、空を見上げていた。天井の隙間から覗く灰色の空。
「最近、夢見が悪くてね」
声のトーンが変わっていた。旧世界の話をする時の穏やかさも、テオの話をする時の硬さもない。もっと古い、もっと深い場所から出てくる声だった。
「大崩落の前も、こんな空気だった」
カイは何も言えなかった。大崩落を生き延びた人間が「あの頃と同じだ」と言う。それがどれほど重い言葉か、戦争を知らないカイにも分かった。
空を見上げた。灰色は変わらない。風の匂いも、鴉の声も、いつもと同じだ。
だが確かに、何かが違う。
それが何なのか、カイにはまだ分からなかった。
「ゼロ・デイ以前」――灰域のスラングで「ありえないほど昔」の意。大崩落の開戦日を起点とする時間感覚が、灰域の住民には染みついている。




