傭兵の掟
ふいに焚き火が爆ぜた。
あの戦闘からもう5時間が経っていた。日は沈み、灰域の荒野に夜が降りている。旧都市遺構の壁際に三人で火を囲み、カイは膝を抱えて座っていた。
手の震えはもう止まっていた。だが指先にまだ銃口を向けた時の感触が残っている。あの男の宙を泳ぐ目。引き金にかかった指の冷たさ。目を閉じるとそれが浮かんでくる。撃たなくてよかったのか、撃つべきだったのか。何度考えても答えは出なかった。あいつはまた誰かを襲うかもしれない。それでも撃てなかった。その二つが胸の中でずっと引っかかっている。
「食え」
ふいにトワが干し肉を差し出した。カイは受け取って口に入れた。噛む。塩辛い。硬い。味なんてほとんど分からなかった。それでも顎を動かしているうちに、少しずつ体が現実に戻ってくる。
「初めてか。人に銃を向けたのは」
トワの声は平坦だった。
「……ああ」
「撃てなかったな」
「ああ」
「それでいい。撃てない方がいい。簡単に撃てるようになったら、お前は終わりだ」
トワは焚き火を見つめたまま言った。炎が揺れるたびに頬の傷痕が影を落とす。慰めるような口ぶりではない。ただ自分の経験から出た言葉なのだろうとカイは思った。だからこそ、その一言は妙に胸に残った。撃てなかった自分を責めなくていいのかもしれない。少しだけそう思えた。
カイはトワに聞いた。灰域の傭兵の世界のことを。
トワは焚き火の向こうで、抑揚のない声で語った。
「傭兵には等級がある。下は荷物運び。上は……何でもやる。殲滅戦も、暗殺も」
「トワは」
「一番上だった。昔の話だ。今は登録を捨てた」
「なんで、辞めたんだ」
訊いてから立ち入りすぎたかもしれないと思った。トワの過去に軽々しく触れていい気はしない。だがトワは怒らなかった。
焚き火を見つめたまましばらく黙っている。炎が揺れ、灰原草の枯れ茎が燃え尽きて炭になっていく。答えたくなければ答えなくていい。そう言おうとしたとき、トワが口を開いた。
「依頼を受けて、標的を追って、仕留めた。灰域の小さな集落に逃げ込んだ男だった。武器密売の元締め。殺すのは、難しくなかった」
干し肉を噛むカイの顎がいつの間にか止まっていた。
「でも、標的の家族がいた。女と、子供が一人。五つか六つくらいの、女の子だ。俺が仕留めた時、その子が見ていた」
言葉がそこで一度切れた。
「俺はその子の目を見て、二度とギルドの仕事はできないと思った」
カイは何も言えなかった。
何か言うべきだとは思った。だが何を言っても軽くなる気がした。慰めの言葉も相槌も、この告白の重さには釣り合わない。さっき自分が武器を持たない男に銃を向けて撃てなかったことを思い出す。あの震えとトワが見たという子供の目は、どこかで地続きなのかもしれない。だがそれを口にする資格が自分にあるとも思えなかった。結局カイは黙って焚き火に枝を一本足した。トワもそれ以上は何も言わなかった。
* * *
「掟は三つだ」
トワが指を折った。
「依頼人を売らない。非戦闘員を巻き込まない。鉄殻を盗まない」
「三つ目が、分からない。なぜ鉄殻を盗んじゃいけないんだ」
他の二つは言われなくても分かる。だが三つ目だけは引っかかった。盗みは盗みだろうと思ったのだ。
「灰域で鉄殻は、命そのものだからだ」
トワが答えた。
「鉄殻がなけりゃ、灰域狼に食われる。廃材も運べない。集落も守れない。盗るってことは、その集落の人間ぜんぶを、ゆっくり殺すのと同じだ」
燃料が尽きて生身で荒野を歩いた夜のことが、カイの頭をよぎった。あのときもし残殻そのものを奪われていたら。想像すると背筋が寒くなった。三つ目の掟の重さがようやく腑に落ちる。
カイは頷いた。ラストヘイムでもカイの残殻は集落の防衛と廃材回収の要だった。あれがなければ暮らしそのものが回らない。
「さっきの連中は」
「三つとも破る類だ。灰域にはああいう手合いがいる。大崩落後の混乱で道を踏み外した奴、最初から道がなかった奴。掟を守る傭兵は、ああいう連中を嫌う。商売の邪魔だからな」
商売道具、とトワは言った。信用を切らした傭兵がさっきの三人になるのか。カイは置き去りにされた敵機の残骸のほうをもう一度見た。
ガルドが赤葉の煙草に火をつけた。辛い煙が夜空に昇っていく。それまで黙って聞いていたガルドがぽつりと言った。
「テオも傭兵だった」
カイは顔を上げた。父が傭兵だったことはなんとなく知っていた。だがガルドの口から改めて聞くと、知らない父の輪郭がまた一つ濃くなる気がした。
「だがテオは、掟を守った。馬鹿正直なくらいにな。依頼は選んだ。非戦闘員を巻き込む仕事は、どんなに金が良くても断った。鉄殻を奪う依頼も、だ。おかげで、ちっとも稼げなかった」
ガルドは少し笑い、それから真顔に戻った。
「だが、テオの名前は灰域で重かった。あいつが請けた仕事は信用できる、あいつが守った集落は安全だ。そういう評判が、金より確かなテオの財産だった」
カイはラストヘイムでの暮らしを思い出した。決して豊かではなかったが、集落の誰もが父を頼りにして言葉に耳を傾けた。子供だったカイにはそれが当たり前に思えていた。父がどれだけのものを積み重ねてあの信頼を得ていたのか、今になってその重みが分かり始めている。自分は父の名前にどれだけ守られて育ってきたのだろう。
父が金持ちでなかった理由を、カイはずっと知らなかった。質素な食卓もすり切れた作業着も、あれはテオが選んだ依頼の結果だったのだ。金にならない道を父はわざと選んでいた。
* * *
夜が深まった。
ガルドが眠りに落ちて鼾が聞こえ始める。カイとトワだけが起きていた。焚き火の炎が小さくなり、炭が赤く光っている。
トワが荷物から茶色の塊を取り出した。掌に載るくらいのいびつな飴だ。一つを口に入れる。
「こいつを舐めると、ガキの頃を思い出す」
トワが言った。声が少しだけ柔らかい。飴を舐めているトワは頬の傷痕ごといつもより幼く見えた。
「食うか」
カイは一つもらって口に含んだ。
途端に舌の裏からじゅわりと唾液が湧いた。濃い蜂蜜の甘さと干し果物の鋭い酸味。ラストヘイムのパサついた芋の甘みしか知らない口の中で、蜜がねっとりと溶けていく。こんな味が灰域にあったのか。
「美味い」
こわばっていた顎がたまらず緩んだ。
「だろう。カラス商隊のおばちゃんが作ってるんだ。蜂蜜は、南のどっかの養蜂場で採れるらしい」
養蜂場。この荒野のどこかで誰かが蜂を飼って、こんな甘いものを作っている。会ったこともない誰かの作った甘さがいま自分の口の中にある。それが不思議だった。
カイは飴を舐めながら夜空を見上げた。雲が薄くなっている。その向こうに微かに星が見えた。タリアと屋上で見たあの雲の切れ間の光と同じだ。
ゆっくりと息を吐く。喉の奥へ落ちていく唾までまだ甘かった。




