傭兵の掟
傭兵の世界。
焚き火が爆ぜた。
戦闘から五時間が経っていた。日は沈み、灰域の荒野に夜が降りている。旧都市遺構の壁際に三人で火を囲み、カイは膝を抱えて座っていた。
手の震えは止まっていた。だが、指先にまだ操縦桿の感触が残っている。銃口を向けた時の、あの重さ。引き金にかかった指の、あの冷たさ。
「食え」
トワが干し肉を差し出した。カイは受け取り、口に入れた。噛む。塩辛い。硬い。顎を動かしているうちに、少しだけ体が動き出した。
「初めてか。人に銃を向けたのは」
トワの声は平坦だった。
「……ああ」
「撃てなかったな」
「ああ」
「それでいい。撃てない方がいい。簡単に撃てるようになったら、お前は終わりだ」
トワは焚き火を見つめたまま言った。炎が揺れるたびに、頬の傷痕が影を落とす。
カイはトワに聞いた。灰域の傭兵の世界のことを。
トワは語った。焚き火の向こうで、抑揚のない声で。
「傭兵ギルドには等級がある。A級からD級。D級は日雇い。護衛や荷物運び。C級は小規模な戦闘任務。B級は大規模戦闘や要人護衛。A級は――何でもやる。殲滅戦も、暗殺も」
「トワはA級だったんだろう」
「昔の話だ。今は登録を捨てた」
なぜ辞めたのか。
トワは焚き火を見つめて、しばらく黙った。炎が揺れる。灰原草の枯れ茎が燃え尽き、炭になっていく。
「依頼を受けて、標的を追って、仕留めた。灰域の小さな集落に逃げ込んだ男だった。武器密売の元締め。殺すのは難しくなかった」
声に感情がない。事実を述べている。
「でも標的の家族がいた。女と、子供が一人。五つか六つくらいの女の子だ。俺が標的を仕留めた時、その子が見ていた」
トワの声が、初めて僅かに揺れた。
「俺はその子の目を見て、二度とギルドの仕事はできないと思った」
* * *
灰域の傭兵の掟は三つ。
依頼人の情報を売らない。非戦闘員を巻き込まない。鉄殻を盗まない。
「三つ目が分からない。なぜ鉄殻を盗んではいけない」
「灰域で鉄殻は命そのものだ。鉄殻がなければ灰域狼に食われる。廃材も運べない。集落を守れない。鉄殻を盗むのは命を盗むのと同じだ」
カイは頷いた。ラストヘイムでも、カイの残殻は集落の防衛と廃材回収の要だった。あれがなければ、ラストヘイムの暮らしは成り立たない。
「さっきの連中は」
「三つとも破る類だ。灰域にはああいう手合いがいる。大崩落後の混乱で道を踏み外した奴、最初から道がなかった奴。掟を守る傭兵は、ああいう連中を嫌う。商売の邪魔だからな」
商売。傭兵にとって、信用は商売道具だ。掟を守るから依頼が来る。掟を破れば、依頼は来なくなる。信用がなくなれば、追い剥ぎをするしかなくなる。堕ちていく先は、さっきの三人と同じだ。
ガルドが赤葉の煙草に火をつけた。辛い煙が夜空に昇る。
「テオも傭兵だった。だがテオは掟を守った。だから灰域で信頼された」
カイは父の名に耳を傾けた。
「テオは依頼を選んだ。非戦闘員を巻き込む依頼は断った。鉄殻を奪う依頼も断った。金にはならなかったが、テオの名前は灰域で重みがあった。あいつが請けた依頼は信用できる。あいつが守った集落は安全だ。そういう評判が、テオの財産だった」
父は金持ちではなかった。ラストヘイムでの暮らしは質素だった。だが父の名前は、灰域で通用した。そのことの意味を、カイは今になって理解し始めている。
* * *
夜が深まった。
ガルドが眠りに落ち、鼾が聞こえ始める。カイとトワだけが起きていた。焚き火の炎が小さくなり、炭が赤く光っている。
トワが荷物からカラス商隊キャンディを取り出した。
蜂蜜と干し果物を固めた飴。灰域のカラス商隊が各地で売り歩く菓子で、子供たちに人気がある。茶色の塊を掌に載せ、一つを口に入れた。
「こいつを舐めると、ガキの頃を思い出す」
トワが言った。声が少しだけ柔らかくなっている。飴を舐めている時のトワは、傭兵ではなく、ただの29歳の女に見えた。
「食うか」
カイは一つもらい、口に含んだ。
甘い。
蜂蜜の濃い甘さと、干し果物の酸味が混ざった味。舌の上で溶けていく。こめかみの奥が、じんと痺れるような甘さ。
灰域に甘いものがあることを、カイは知らなかった。ラストヘイムでは芋の甘みくらいしか味わったことがない。こんなに甘いものが、この荒野のどこかで作られている。
「美味い」
「だろう。カラス商隊のおばちゃんが作ってる。蜂蜜は灰域南部の養蜂場、干し果物はストーンクロス近郊の果樹園から仕入れてるらしい」
養蜂場。果樹園。灰域にそういうものがある。人がいて、蜂を飼い、果物を育て、飴を作って売り歩く人がいる。
戦場と荒野だけの世界ではない。甘いものを作る人がいる世界だ。
カイは飴を舐めながら、夜空を見上げた。雲が薄くなっている。その向こうに、微かに星が見えた。タリアと見た、あの雲の切れ間の光。
甘い。口の中がまだ甘い。
この甘さを忘れないでいようと思った。




