サービスエリアの夜
開口部を瓦礫で塞ぎ終えても、しばらくは誰も口をきかなかった。
コンクリートの壁が風と雨を遮っている。天井のトタン板に雨粒が叩きつけられ、不規則なリズムを刻んでいた。暗い。窓ガラスは全て割れているが、壁の高い位置にあるおかげで風が直接入ってくることはない。
カイは膝に手をついたまま、まだ整わない呼吸を持て余していた。全身が濡れている。作業着が肌に張り付いて体温を奪っていく。震えが止まらないのは寒さのせいだけではなかった。
「火を起こせ。乾かさないと低体温症になる」
トワが言った。トワ自身も濡れているはずだが声は落ち着いている。入ってくるなり壁の高い位置の窓を順に見上げていた。
「窓は高い。狼は壁を登れない。ここなら朝まで保つ」
その一言で強張っていた肩がようやく少し下りた。それでも壁の隙間の向こうで光る目のことが頭から離れなかった。あんなものに追われて生身で走ったのだ。残殻に乗っていればなんでもない相手だったかもしれない。だが今自分を守っているのは、この崩れかけた壁一枚だけだった。指がまだ細かく震えている。トワやガルドの前でそれを悟られないよう、カイは膝の上で手を握り込んだ。
ガルドが荷物から灰原草の枯れ茎と着火材を取り出した。防水袋に入れていたので乾いている。手慣れた動作で火を起こすと、小さな炎がコンクリートの床を橙色に照らした。三人は火の周りに座り、濡れた上着を脱いで干した。
火の温もりが指先に戻ってくる。固まっていた指がようやく曲がった。
* * *
外で灰域狼の遠吠えが聞こえる。建物の周囲を巡回しているのだろう。近い。だが壁がある。
火の傍で体を乾かしながらカイは建物の中を見回した。
壁際に旧世界の自動販売機の残骸が並んでいた。
3台。金属の箱体は錆びて変色し、表面のプラスチックパネルが割れて中が見えている。配線と基板がむき出しになって砂が堆積していた。カイは立ち上がり、その一台の前に立った。ボタンが並んでいる。押してみたが何も起きない。当然だ。電力がない。
「これ、何だ」
「自動販売機だ。金を入れれば飲み物が出てきた」
ガルドが火の向こうから答えた。
「金を入れれば?」
「硬貨っていう小さな金属の板があった。それを入れて、ボタンを押すと、ここから缶が落ちてくる」
カイはボタンの横に貼られたラベルの残骸を見た。色褪せて判読不能だが何かの飲料の写真だったらしい。
「どこにでもあった。道のどこにでも。夜でも買えた」
カイにはうまく像が結べなかった。暗い道に光った箱が立っていて、金属の板を入れると缶が落ちてくる。便利だったのだろうとは思う。でもそれがどれだけのことだったのか、見たことのない自分には測れなかった。
もう一度ボタンを押してみる。やはり何も起きない。砂の詰まった取り出し口に指を入れると、中は空っぽでただ冷たかった。カイは自動販売機の前を離れた。
* * *
トワが戻ってきた。
いつの間にか外に出ていたらしい。手に灰域野兎を二羽ぶら下げている。
「罠を仕掛けておいた。建物の裏に獣道がある」
手際よく皮を剥き、肉を焚き火で炙り始めた。脂が火に落ちてジュッと音がする。肉の焼ける匂いが建物に広がった。
灰域野兎の肉とガルドが持っていた塩漬けの干し肉を焚き火で温めた。カイは野兎の肉を齧った。脂は少ないが焼きたての肉は温かい。塩気と脂が交互にくる。空っぽだった腹にじわじわ溜まっていった。
「美味い」
「……美味いか? 味付けは塩だけだぞ」
「温かいから美味い」
トワが一瞬肉を炙る手を止めた。それから何も言わず自分の分を口に運んだ。
ガルドがヘイズ・ミントの葉を差し出した。カイは一枚もらって奥歯で噛む。苦みが先に来て、遅れて冷たい爽快感が舌に広がった。
「テオはこれが嫌いだった。苦いって顔をしかめてたよ」
ガルドが言った。珍しくテオの話を自分から出した。
「親父は甘いものが好きだったのか」
「いや、苦いのが嫌いなだけだ。甘い辛いは気にしない男だった。ただ苦味だけが駄目で、薬を飲むのに毎回騒いでいた」
いい大人がと笑いながら言うガルドの声はどこか柔らかかった。カイは父が薬で騒ぐところを想像してみたがうまく像にならない。カイの覚えている父はいつも穏やかで何にも動じない人だった。だがガルドの語る父はもっと子供っぽくて人間くさい。同じ人のはずなのに知らない父がそこにいる。
「親父の話、もっと聞きたいな」
言ってから少し照れくさくなった。ガルドは何も答えずただ火に枝を一本足した。だが嫌そうではなかった。
* * *
夜が深まった。
焚き火を絶やさないよう交代で番をする。トワが最初。ガルドが次。カイが最後。
ガルドは火の番を終えた後、あっという間に眠りに落ちた。規則正しい鼾が雨音に混じって聞こえる。トワは壁にもたれて目を閉じているが眠ってはいない。呼吸が浅い。
トワの番の間、カイは横になって天井を見つめていた。トタン板の継ぎ目から雨水が細く垂れている。
「寝ないのか」
トワの声。
「眠れない。体が興奮している」
「初めての野営はそうだ。3日目から慣れる」
「トワは慣れているのか」
「14年やっている」
14年。カイがまだラストヘイムの壁の中で鉄屑を磨いていた頃から、この人はずっとこんな夜を越えてきたのか。自分が今夜一晩で音を上げそうになっているのが急に恥ずかしくなった。
「眠れないのは、悪いことじゃない」
ふいにトワが言った。
「警戒してるってことだ。灰域じゃ、それが命を拾う。なんとも思わなくなったときが、一番危ない」
慰めなのかただの事実なのか、トワの声からは分からなかった。それでもその言葉は少しだけ、カイの胸のつかえを軽くした。
トワは火に枝を足した。炎が一瞬大きくなってトワの横顔を照らした。切れ長の目。鎖骨へ伸びる古い銃創の痕。表情は動かないのに目だけが時々入り口の闇のほうへ流れる。何かを追っているのかただ火を見ているだけなのか、カイには分からなかった。
「傭兵時代、3週間野営したことがある。風呂に入れなくて、自分の匂いで目が覚めた」
カイは笑った。声を出して笑ったのはラストヘイムを出てから初めてかもしれない。トワは笑わなかった。だが口の端がほんの少しだけ上がった。
それきり二人とも黙った。雨音と火の爆ぜる音だけが続く。気まずい沈黙ではなかった。喋らなくても隣に人がいる。それだけで夜の長さが少し違って感じられた。
カイの番が来た。
トワが目を閉じる。本当に眠ったのかはやはり分からなかった。ガルドの鼾が続いている。カイは火の前に座り直し、燃え尽きそうな枝を組み直した。灰域狼の遠吠えはいつの間にか遠くなっている。去ったのだろうか。それともただ機会を待ってどこかで伏せているのか。確かめようはない。雨はまだ降っていた。
東の空が薄く明るくなり始めた。灰色の空が微かに橙を帯びる。空気の冷たさがほんの少しだけ緩んだ気がした。
静かだ。
雨の音とガルドの鼾と、トワの浅い寝息。それだけだった。カイは膝を抱え、消えかけた火に枝を一本足した。ラストヘイムの朝はいつも灰の天井を見上げて始まった。ここには割れた窓の向こうに、空がある。




