燃料が尽きる
燃料残量計の針が赤域に落ちた。
カイは計器を睨んだ。12%。巡航でもあと1時間あるかどうか。重油の匂いがいつもより濃く鼻につき、喉の奥が乾いた。
「ガルド。テオの地図にあった燃料キャッシュは」
「漁られてた。先客がいた」
通信越しのガルドの声は淡々としていた。漁られていたか。テオが隠してから七年。七年だ。先客がいて当たり前か。分かってたよ。そう思っても心臓が嫌な音を立てた。
針がさらに下がっていく。一桁になった。
カイは残殻を停止させた。動力炉の唸りが消え、コックピットが静かになる。計器のランプが順に消えていき、最後に残ったのは赤い針一本だけだった。動かなくなった鉄の塊の中にカイは座っていた。
コックピットから降りる。
地面に足をつけた瞬間、灰域の風が体を叩いた。砂混じりの風。頬が痛い。機体の中ではただの数字だった風が、今は重く冷たく、砂の粒が一つひとつ硬い。鉄の装甲一枚がどれだけ厚かったか。
* * *
三人は生身で荒野を歩いた。
背中に工具と水と最低限の食料を背負い、次の集落を目指す。残殻は置いていくしかない。トワのシルフも燃料が心許ない。二機分の補給を考えれば温存すべきだとガルドが言った。カイは置き去りにする自分の機体を一度だけ振り返った。
30キロ。残殻なら一時間半の距離だが、生身では丸一日かかる。荒野の地面は石と砂と灰原草の根が入り混じり、安全靴の底が滑る。一時間も歩くと足の裏が熱を持ち始めた。
ガルドが先頭を歩く。歩幅が一定でリズムが崩れない。背中の荷物の重さも苦にしていないように見えた。カイはもう一歩ごとに足の裏の痛みを数えるようになっている。それでも口を引き結んだ。トワもガルドも平気な顔で歩いている。ここで音を上げたらと思うと、唇を噛むしかなかった。
「テオと逃げた時もこうだった。燃料が切れて、三日歩いた。足の爪が全部剥がれた」
「三日?」
「ああ。グランヴェルトの追手がいた。鉄殻に乗ってたら見つかる。だから生身で逃げた。テオは俺より足が速かった。あいつは背中にお前を――」
ガルドが言葉を切った。
「……いや、何でもない」
カイは何も聞かなかった。背中に俺を――その先をガルドはもう言わないだろう。喉まで出かかった問いを、足を一歩前に出すことで飲み下した。今は聞くときじゃない。
* * *
昼過ぎに風向きが変わった。
南東から湿った風が吹いてくる。灰域で湿気を感じるのは珍しい。空を見上げると灰色の雲が低く垂れ込めている。雨が来る。
「急げ。体が濡れたら体温を奪われる」
トワが歩調を速めたが、その足取りは崩れない。つま先から置いて膝でいなし、泥をほとんど跳ねさせない。荒野に慣れた体だとカイは思う。同じ距離を歩いて、こっちは足を引きずっているのに。
カイは周囲を見回した。遮蔽物がない。灰原草の海が雨に打たれて広がっているだけだ。隠れる場所も雨をしのぐ場所もない。さっきまで頼りにしていた残殻の装甲が今はどれだけありがたかったか、骨身に染みて分かった。
トワがふいに立ち止まり、地面を見ている。
「灰域狼の糞だ。乾いてない。半日以内のものだ」
カイは足元を見た。確かに灰原草の根元に黒っぽい塊がある。雨に濡れて崩れかけていた。トワがいなければ、自分はこれを見てもただの泥としか思わなかっただろう。
「群れがいる。夜までに屋根のある場所に入らないと不味い」
灰域狼。名前だけはテオの整備記録の片隅で見たことがあるが、実物を見たことはない。見た奴はたいてい帰ってこなかったからだ。生身の人間が三人で、鉄殻もない。背筋がひやりとした。
雨が降り始めた。
最初は糸のような雨だったが、すぐに重くなった。空から落ちてくる水滴が砂を叩いて泥を作る。カイの作業着が背中から濡れていく。冷たいというより痛い。この時期の灰域の雨はもう冬の雨だ。
* * *
日没が迫っていた。
雨の中を歩き続けてもうどれくらいになるか。カイの足はとっくに限界だった。靴の中が水でぐしょぐしょになり、指先の感覚が鈍い。前を行くガルドの呼吸が後ろからでも分かるくらい荒い。あの人がここまで息を乱すのをカイは初めて見た。
トワだけがいつもと変わらずペースを崩さない。
東の丘から雨を這うような長い遠吠えが響いた。
それに応える声が一つ、二つ、三つ。南東の灰原草が揺れ、首の後ろがびりりと粟立った。まだ見えない何かが地を蹴って迫ってくる重たい圧を肌が拾っている。冴覚。
走らなければ。分かっているのに足がもつれる。どうしてこんなに足が遅いんだ。泥に沈む自分が惨めで、胃の腑が冷たく引き攣った。
「走れ!」
トワの声。
雨霞の向こうに旧世界のサービスエリアの骨格が浮かんだ。崩れたコンクリート。穴の空いた窓から暗闇が覗いている。屋根があって壁がある。今はそれだけでよかった。
三人は走った。雨に打たれ、泥に足を取られながら、崩れかけた建物へ向かって息を削って走った。
背後で遠吠えが近づいてくる。一頭ではない。複数の足音が雨音の下から這い上がってくるように聞こえた。振り返る余裕はなかった。振り返ればその分だけ遅れる。カイは前だけを見てトワの背中を追った。
建物までの最後のひと区切りが永遠のように長かった。足が動かない。肺が焼ける。止まれば終わる。
先に着いたトワが崩れた壁の開口部に身を滑り込ませる。続いてガルド。最後にカイが転がり込むように建物の中へ飛び込んだ。
ガルドがすぐに手近な瓦礫を引きずって開口部を塞ぎにかかる。カイも反射的に手伝い、重いコンクリートの塊をありったけの力で押す。腕が震えた。走り通したあとの体はもう自分のものではないみたいに重い。それでも塞がなければ。隙間が大きければ狼が入ってくる。その一心でカイは動いた。
すぐ外で低い唸り声がした。
壁の隙間の向こう、雨の中にいくつもの目が光っている。緑がかった冷たい光。数えるのも怖かった。狼たちは建物の周りをゆっくりと歩き回っている。すぐには飛びかかってこない。それがよけいに怖かった。
カイは冷たい壁に背を預け、ずるずると座り込んだ。心臓がまだ肋骨を叩いている。全身がずぶ濡れで震えが止まらない。生きている。とりあえず今は、まだ。
隣ではガルドも壁にもたれて荒い息をついていた。トワは入り口の近くに立ったまま、壁の隙間から外を見張っている。あれだけ走って座りもしない。
「夜が明ければ、散る」
トワが外を見たまま言った。
「灰域狼は、夜に狩る。朝になりゃ、巣に戻る。腹が満ちるか、獲物に手が出せないと分かるまではな。それまで、ここを動くな」
それまで、と思う。それまでこの狼たちと薄い壁一枚を挟んで過ごすのか。カイは膝を抱えた。濡れた服が体温を容赦なく奪っていく。火を焚きたかったが、煙を出せば居場所を教えるようなものだ。それもできない。
壁の向こうでまた一つ、低い唸り声がした。濡れた服の冷たさがじわじわと骨まで届いてくる。カイは膝を抱える腕に力を込めた。




