名もなき集落
旧ルジェフの集落は旧世界のコンクリート製倉庫を住居に改修した場所だった。
壁にはひび割れを塞いだ泥の跡が幾重にも重なっている。乾ききっていない濡れた色の泥がいちばん上にあった。誰かが今朝も塞いだのだ。ここではまだ補修が続いている。屋根には錆びたトタン板が重ね張りされ、隙間から灰原草の茎が突き出していた。建物を数えるまでもなく、ラストヘイムよりずっと小さいと分かる。
集落の入り口に男が一人立っていた。
「止まれ。名前と用件を言え」
髭面の老人だった。背は低いが肩幅だけが岩のように張っている。名前を訊いておきながら腰の得物には手をかけていない。
「カイ・セヴァル。ラストヘイムから来た。東に向かう途中だ」
「ラストヘイムか。遠いな」
老人はカイの残殻を見上げ、それからトワのシルフ、最後にガルドの作業車を見た。
「通り客は歓迎するが、長居はするな。食い扶持が足りない」
ミハイル。それがこの集落の長老の名だった。
* * *
残殻を集落の端に停めてコックピットから降りる。
地面を踏んだ瞬間、靴底に伝わる硬さがラストヘイムと違った。粘土質だ。雨が降れば泥濘になるが、今は乾いてひび割れている。一歩あるくたびに薄く土埃が立つ。
集落の中を歩くと人の気配がまばらだった。戸口の女がこちらを見てすぐ顔を引っ込めた。井戸端の老人は洗い物の手を止めて機体を見上げる。みな痩せている。ラストヘイムも豊かではなかったが、ここはそれ以上だ。よそ者を見る目だった。
子供たちが走ってくる。
五人、いや六人。いちばん小さいのはまだ五つにもならないだろう。裸足の子が二人いた。靴が足りないのだと気づくのに少し間があった。その子たちがカイの残殻を見上げて目を輝かせる。
「鉄殻だ!」
「でっかい!」
「触っていい?」
カイは「足元だけな」と答えた。子供たちは歓声を上げて残殻の脚部に群がる。錆びた装甲板を叩き、関節部の隙間を覗き込んでは指についた泥を互いに見せ合っていた。ラストヘイムの子供たちと何も変わらない。鉄の塊を見るとこうやって寄ってくる。一人が脚部のステップによじ登ろうとしてトワに「降りろ」と短く言われ、慌てて飛び降りた。それでも笑っている。怒られたことより、間近で鉄殻を見られたことのほうがよほど嬉しいのだろう。
その中の一人で少し年上の少年がカイのそばに来た。鉄殻拾いが得意なのだという。手のひらに使えそうな部品を並べて見せてきた。砂に磨かれた小さなギアと折れたボルト、何かの配線の切れ端だ。
「これ、使える?」
カイはギアを手に取った。汎殻の肘関節に使う規格だ。摩耗は激しいがまだ歯が残っている。
「使える。ありがとう」
少年の顔が明るくなった。リックもこういう顔をしただろうか。
* * *
日が暮れると集落の中央で焚き火が焚かれた。
共同窯で焼かれた灰域パンが夕食に出された。どんぐり粉のスープと一緒に木の器で渡される。パンは硬くて噛むと顎が痛いが、中はまだ窯の温もりが残っていた。スープは薄いものの舌に塩気を感じた。塩はここでは安くないはずだった。
「ラストヘイムの芋パンよりましだ」
ガルドが言った。カイは否定しなかった。穀物の香りがする。集落のパンは芋のデンプンで水っぽいラストヘイムのものとは違った。
トワは黙って食べている。必要な分だけを口に運び、器を置いてそれ以上は手をつけない。カイは自分の器にまだスープが残っているのに気づいた。腹は減っているはずだった。一日歩いてまともに食べていない。それでもなぜか喉を通りにくかった。
「残すなら、よこせ」
ガルドが手を伸ばしてくる。カイが黙って器を渡すと、ガルドはためらいなく飲み干した。こういうときこの男は何も訊かない。それが今は少しありがたかった。
ミハイルが焚き火の向こうに座っていた。炎に照らされた顔は皺が深い。髭の中に白いものが多く混じっている。膝に肘をつき、火を見つめたままぽつりぽつりと話し始めた。カイたちに聞かせるというより、自分の中に溜まったものを火に向かって零しているように見えた。誰かが通りかかるたびにこうして話すのかもしれない。
「ここには病院もない。子供が熱を出したら、錆苔を煎じて飲ませるだけだ。去年の冬、二人死んだ。どっちも五つにもなってなかった」
カイは黙った。ラストヘイムにはクレアがいる――その事実が今はやけに遠かった。自分は明日にはここを発つ。何もしてやれない。語る老人の顔を見ていられなくて焚き火の底へ視線を落とした。
「クレスタの行商がたまに薬を持ってくるが、値段が法外でな。干し肉一年分と、解熱剤ひと瓶。命の値段がそれだ」
焚き火が爆ぜた。火の粉が舞い上がり、闇に紛れて消えた。
ミハイルは続けた。
「それでも俺たちはここにいる。管区に行けば医者はいるだろう。だが、番号を振られて使い潰される。……まあ、そういうことだ」
言いさしてミハイルは口をつぐんだ。ガルドが赤葉の煙草に火をつける。辛い煙を長く吐いて目を細めた。何も言わなかった。
焚き火の向こうで子供たちがまだ残殻の脚にまとわりついている。さっきの少年が装甲の傷を指でなぞって何か仲間に説明していた。あの子たちのうち何人がこの冬を越せるのだろう。そう考えかけてやめた。膝の上で意味もなく手のひらを握ったり開いたりした。
その夜はミハイルが倉庫の隅を使わせてくれた。毛布を敷いて横になる。
硬い床から冷えが背中に染みてくる。ふとラストヘイムの自分の部屋を思い出した。あそこも豊かではなかったが、毛布はもう少し暖かかった気がする。家を出るというのはこういうことの積み重ねなのかもしれない。当たり前に思っていた小さなものが一つずつ手から離れていく。隣でガルドの寝息が聞こえる。トワは少し離れた場所で壁に背を預けたまま目を閉じていた。本当に眠っているのかは分からない。天井の隙間から灰色の夜空が細く見えた。
* * *
翌朝、出発の支度をしているとミハイルが近づいてきた。
カイの耳元に顔を寄せる。焚き火の煤と乾いた泥の匂いがした。
「東に傭兵の一団がいる。たちが悪い。名前は知らん。旧旗を掲げている。気をつけろ」
旧旗と聞いてカイの口の中が苦くなった。大崩落前の国家の旗を掲げて回る連中の話はラストヘイムでも聞いたことがある。ろくな噂ではなかった。
「ありがとう」
カイは頭を下げた。ミハイルは手を振った。それだけだった。
昨日の少年が走ってきた。手にまた何か握っている。砂に埋もれていたらしい小さなボルトだった。
「これも、いる?」
カイは受け取った。使えるかどうかは分からないが、いると答えた。少年は満足そうに頷いてまた仲間のところへ駆け戻っていく。裸足のままだった。カイはボルトを胸ポケットに入れた。
残殻のコックピットに乗り込み、計器を確認する。燃料残量42%。東へ。
操縦桿を握る手のひらがひとりでに冷たくなっていた。一度息を吐くが、うまく整わなかった。カイは残殻の脚を東へ向けた。




