荒野の三人
朝の灰域は鉄錆色の霧に包まれていた。
焚き火の残り火を踏み消し、カイは残殻のコックピットに身を滑り込ませた。革張りの座席は夜のあいだに冷え切っている。背中を預けると布越しに冷たさが染みた。計器盤のスイッチを順に入れていく。燃料残量48%。数字を確かめた指を左腕の動力伝達系へ滑らせた。黄色のランプが一つ灯ったまま消えない。ガルドが言った通りだ。無理に振れば落ちる。
右手で操縦桿を握る。手のひらに馴染んだ革の感触。この機体に乗り始めてから何度この感触を確かめたか分からない。左手でスロットルを押すと残殻の動力炉が腹の底で低く唸り、鉄の巨体がゆっくりと立ち上がった。起動のたびに膝下の欠けた装甲が軋む。
隣にはトワの残殻がいる。
シルフ。装甲を限界まで削り落とした骨だけの機体は、朝靄の中で昆虫のシルエットに見えた。あんなに装甲を捨ててよく平気でいられるものだ。カイの残殻とは何もかも違う。単眼カメラが前方を睨んでいる。
後方にガルドの旧型作業車。六輪のタイヤが砂を噛み、排気管から細く白煙が昇っている。荷台には工具箱と予備部品。テオの工具箱もあの中にある。蓋の角が欠けて留め金の片方が外れたままの、見慣れた箱だ。あれを荷台に積み込むときガルドは何も言わなかったし、カイも訊かなかった。
ラストヘイムを出て二日目の朝だった。集落の門を抜けたときの住民たちの顔を思い出そうとしても、うまく像を結ばない。出てきたという気がまだしなかった。
* * *
旧世界の道路跡を辿る。
アスファルトが割れ、隙間から灰原草が伸びている。白い穂が残殻の歩みに揺れた。道路脇には錆びたガードレールが点々と残っていた。その支柱に止まった一羽の灰域鴉が、機体を見上げて首を傾げ、それからまた地面の何かをつつき始めた。
半日も歩くと廃墟が途切れた。視界を遮るものが消え、鉄錆色の土と灰原草の海だけが地平線まで続いている。ラストヘイムの外がこんなに広いとは思っていなかった。
通信にトワの声が入る。
「カイ。巡航速度を落とすな。一定のリズムで歩け。残殻の関節は、速度のムラで消耗する」
「分かった」
「分かったなら返事は要らない。通信も電力を食う」
ガルドの野郎と同じことを言う。カイは口の端を緩めた。整備中のガルドも口を開けば電力か燃料の話だ。
左右のペダルを一定の間隔で踏み続ける。一歩、また一歩。それを延々と繰り返すだけの単調な作業に、ふくらはぎがじわりと張ってきた。鉄殻は乗っていれば勝手に進むものだとどこかで思っていたが、違う。一歩ごとに自分の体重を運んでいるみたいに操作する側にも疲れが溜まる。集落の壁の中で動かしていたときには分からなかったことだ。
旧世界の信号機が根元から折れて地面に転がっていた。赤と青と黄の三色が砂に半分埋もれている。色褪せてもうどれがどれだか判別できない。カイの知らない色だ。
胸ポケットからテオの地図を出し、片手で広げる。褪せたインクの注記が道のあちこちに散らばっていた。「この先崩落あり、迂回」「水源あり、浄化結晶使用可」「廃車群、部品回収済み」。父の筆跡だ。同じ道をいま自分の足でなぞっている。地図を畳んで胸ポケットに戻した。
* * *
昼過ぎ、崩れた陸橋の残骸を迂回した。
コンクリートの塊が道を塞ぎ、鉄筋がむき出しになっている。その隙間から鉄根樹が根を伸ばし、コンクリートを内側から押し割っていた。見慣れた赤茶の幹だ。こいつが太く育つ場所にろくな道はない。
迂回路をトワが先導する。シルフの細い脚が瓦礫の上を軽やかに跳ねた。カイの残殻は重く、同じ瓦礫を踏むと足元が崩れた。バランスを崩しかけ、慌てて操縦桿を引く。
「足場を選べ。踏む前に見ろ」
言われてカイは反射的に足元を見た。さっき崩れた瓦礫の縁を今度は避けて踏む。
迂回路の途中で朽ちた鉄殻の残骸を見た。
頭部が吹き飛んでいる。胸部のコックピットハッチが跳ね上がったまま砂と灰原草に半分埋もれていた。塗装は剥落し、錆だけが残っている。誰かがここで死んでそのまま置き去りにされた機体だ。
俺も帰れないかもしれない。いま戻りた――
そこまで考えてカイはその先を喉の奥へ押し込んだ。みっともないと思う。出てきてまだ二日だ。操縦桿を握った手のひらにじっとりと冷たい汗が滲んでいる。何を考えているのか自分でもうまく言葉にならない。
残骸の脇を通り過ぎる。視界から消えても汗は引かなかった。
* * *
午後の風向きが変わった。
南から乾いた風が吹き、砂塵が視界を遮る。センサーの光学系にノイズが走り、カイは手動で感度を絞った。砂の向こうは計器の数字でしか分からない。
だが砂塵の向こうに何かを感じた。うまく言えないが、空気の重さが南西だけ違う気がする。気のせいかもしれない。
「トワ。南西に何かいる」
「……何も見えないが」
「分からない。ただ、何かがある」
トワは一瞬黙り、それからシルフの進路を変えた。南西を避けて北寄りに迂回する。文句は言わなかった。
しばらくして南西の方角に砂煙が上がった。鉄殻の足跡だ。複数機。カイたちの進路と交差するはずだった地点をその足跡が横切っていく。
通信にガルドの声が入る。
「……冴覚か」
カイは答えなかった。あれが何だったのか自分でも分からない。本当に何かがいたのか、ただ風が変わっただけなのかも確かめようがない。
ただ、トワが何も訊かずに進路を変えたことだけが妙に頭に残った。シルフの単眼カメラはこちらを一度も振り返らなかった。何を考えているのかやっぱり分からない。
夕暮れが迫る。
灰色の空が西から鉄錆色に染まっていく。コックピットの計器盤まで赤く染まり、カイは一度だけ目を細めた。一日中操縦桿を握りっぱなしで肩が回らない。首を左に倒すと付け根で骨が鳴った。気を抜くと座席に背中を預けたまま意識が遠のきそうだった。
風のあたらない窪地を見つけて三人は機体を止めた。ガルドが作業車を降り、慣れた手つきで焚き火の支度を始める。白髪交じりの太い腕が暗がりの中で火打ちを打った。
トワはシルフから降りると、まず脚部の関節を覗き込んだ。降りてすぐ機体を点検するのが当たり前の動作なのだろう。脚を覗き込む横顔に焚き火の灯りが当たった。カイより頭ひとつ背が低い。痩せた体を灰色のコートに包んでいる。短く刈った髪の下の顔は火に照らされても歳が読めなかった。
カイも見習って膝下の欠けた装甲に手を当てた。一日分の砂がフレームの隙間に詰まっている。
ガルドが地図を広げる。焚き火の灯りに皺だらけの紙が浮かんだ。
「最初の中継地点は旧ルジェフの集落だ。ここから30キロ。明日の昼には着く」
「どんなとこなんだ」
「さあな。テオの地図にゃ載ってる。だが俺が最後に通ったのは、もう何年も前だ。今もあるかどうかは、行ってみねえと分からん」
30キロ。明日の昼。カイは操縦桿から手を離し、こわばった指をゆっくり握り直した。明日には知らない人間に会う。怖いような、待ち遠しいような。指先はまだうまく開かなかった。




