トワ・カジャ
旧ルジェフの集落を出て東に進んだ先に平坦な荒野が広がっていた。
灰原草が膝の高さまで生い茂り、風が吹くたびに白い穂が波を作る。見渡す限り遮蔽物はなく、隠れる場所も逃げ込む場所もない。その真ん中に残殻が2機、向かい合って立っていた。少し離れた場所にガルドの作業車が停まっている。荷台に腰かけたガルドがこちらを眺めていた。審判のつもりらしい。
「ここで訓練する」
返事を待たずシルフの関節が低く沈んだ。
コックピットを開け放したままトワがこちらを見ている。痩せた体つきの女だった。短く刈り上げた髪に日に焼けた顔。どこを見ているのか視線の先が読めない。年の頃も分からない。カイより上なのは確かだが、それ以上は表情から何も伝わってこない。
「何をやる」
「模擬戦だ。近接格闘。俺がお前を殴る。お前は耐えろ」
殴ると言いきった。受けてやるでも相手をしてやるでもない。カイは操縦桿を握り直し、手のひらにじわりと汗がにじむ。ラストヘイムで何度か実戦は経験している。だがそれは生きるか死ぬかの場で、誰かに教わりながらの戦いではなかった。教わることがこんなに緊張するものだとは思わなかった。
トワ・カジャのことをカイはほとんど知らない。
クレスタでA級だったとだけガルドは言った。ある依頼で仲間を失ってから大勢で戦うのをやめたらしい。それ以上は本人が語らないし、訊いても答えないだろうという気がした。
* * *
シルフが動いた。
速い。骨格だけの機体が灰原草を薙いで突進してくる。背部と腰部のスラスターが火を噴き、カイの残殻の倍の速度で間合いが詰まる。
右から来る。
カイの体が反応した。操縦桿を左に倒して機体を横にずらす。シルフの右腕が空を切り、戦闘短刀の刃がカイの残殻の肩装甲を掠めた。金属が擦れる甲高い音がコックピットまで響く。背筋が冷えた。あと半歩よけるのが遅ければ肩を抉られていた。模擬戦とはいえトワの刃は本物だ。手心はあっても当たれば壊れる。
「遅い」
トワの声がしたときにはシルフはもう大きく後ろに跳んでいた。一撃を入れて即座に離れる。
「冴覚で読めても、機体が追いつかなきゃ意味がない。お前の残殻は重い。それを忘れるな」
次が来た。今度は左。斜め下から。
カイは操縦桿を引き、機体を半歩後退させた。シルフの蹴りが空を薙ぐ。よけたと思った。だが次の瞬間、トワは蹴りの反動を利用して回転し、背面からの斬撃に繋げてきた。一つの動作が途切れずに次へ流れていく。よける動きがそのまま次の攻撃の溜めになっていた。
捉えた。だが拳が半拍遅れる。
シルフの戦闘短刀が残殻の背部装甲を叩き、コックピットが揺れた。計器のアラートが一つ鳴る。
「冴覚に頼りすぎるな」
トワの声に容赦はなかった。
「相手が機械的に動けば、冴覚は効かない。それだけだ」
* * *
何度叩きつけられたか途中で数えるのをやめた。
残殻の関節が軋み、計器の黄色いランプがまた一つ増えた。汗が目に入る。操縦桿を握る手が滑った。くそ。声には出さなかったが奥歯を噛んでいた。残殻が地面に倒れるたび、コックピットの中の体が放り出されそうになる。背中をシートに打ちつけて息が詰まる。立ち上がるだけでもう腕が重かった。それでもトワは待ってくれない。倒れたカイをもう一度立たせてまた殴ってくる。立てと機体越しに言われている気がした。
当てたと思った瞬間にはもうシルフは退いている。何度やっても背中しか掴めない。トワは攻めながらもう退く場所を見ていた。カイにはそれができない。前に出れば出たぶんだけ深く踏み込んでしまう。
「お前は攻める時に前のめりになる」
6度目の模擬戦の後、トワが言った。通信越しではなく、二人とも残殻の上に座って水を飲みながら。
「灰域で一番大事なのは生き残ること。勝つことじゃない。死んだら何も守れない」
カイは水を飲んだ。喉が渇いている。背中と腰が鈍く疼いていた。
「分かってる」
「分かってない。分かっていたら、五回も転ばない」
言い返したくなった。こっちは機体が重いんだと。だが言ったところで何も変わらないのは、五回転んで身に染みていた。カイは口をつぐんでまた水を飲んだ。
五感を使えとトワは言った。目で見て音を聞き、地面の振動を読めと。冴覚に頼ってきたカイにはその意味がまだうまく掴めない。冴覚は相手の動きが見える前に分かる力だ。それを使うなと言われてもどうすればいいのか。
だがトワの動きには確かに、冴覚では追えない何かがあった。読めても間に合わない。何度反芻しても答えは形にならなかった。
7度目の模擬戦が始まった。
シルフが正面から来た。直線的な突進だ。カイは後退しようとしてやめた。後退すれば距離を取られる。距離はトワの領域だ。逃げればまた同じことの繰り返しになる。
体が後ろに引こうとするのを無理やり押さえた。怖い。正面から来る刃がまっすぐこちらに向かってくる。だが退いて勝てた試しはなかった。
前に出た。
シルフの斬撃を半歩の踏み込みでかわす。刃が頬の横を抜けていき、風の音が長く尾を引いた。トワの右腕が伸びきる――その重心がわずかに前へ傾ぐのを目が捉えた。冴覚ではない。見えたのだ。
カイの残殻の左拳がシルフの胴体に触れた。
軽い衝撃。装甲越しに伝わる金属の硬さ。有効打とは呼べない。だが当たった。
シルフが一瞬動きを止めた。
カイは肩で息をしていた。たった一発、それも掠めただけだ。だが七回も叩きつけられた末にようやく届いた一発だった。コックピットの中でこぶしを握っていた。
「……やっと当たった」
* * *
訓練が終わる頃には日が傾いていた。コックピットから降りると足が地面を踏んだ感覚が頼りない。全身がまだ機体の揺れを覚えている。
ガルドが作業車の荷台に座って赤葉の煙草を吸っていた。煙を長く吐いて目を細める。
「トワ。手加減するな」
「してないよ」
カイは残殻から降り、油に塗れた指で抉られた装甲の断面をなぞった。削られているのは分厚い外殻ばかりだ。コックピットの直上、いちばん装甲の薄い箇所には傷一つない。冷たい鋼の感触だけが指先に返ってきた。
カイは指を離した。礼を言うのも違う気がして何も言わなかった。少し離れた場所でトワがシルフの脚部を点検している。こちらは見ていない。それでいいと思った。
訓練の最後にトワが言ったことが頭から離れない。
「悪くない。でもお前は一つ癖がある。攻める時に右肩が先に動く。冴覚で読み合う相手には致命的だ」
右肩。無意識の動作だ。これまで数えきれないほど操縦桿を握ってきて一度も気づかなかった。自分の体のことなのに。
カイは右肩に手を当てたままもう一度ゆっくり腕を上げてみた。どこで肩が先に動くのか自分でも分からない。何度やっても分からなかった。トワにはそれが一目で見えたのだ。




