名もなき集落
灰域の小さな集落。
旧ルジェフの集落は、旧世界のコンクリート製倉庫を住居に改修した場所だった。
壁にはひび割れを塞いだ泥の跡が幾重にも重なっている。最初の補修は10年以上前だろう。最も新しい泥は、まだ乾ききっていなかった。屋根には錆びたトタン板が重ね張りされ、隙間から灰原草の茎が突き出している。人口は約40人。ラストヘイムの5分の1にも満たない。
集落の入り口に、男が一人立っていた。
「止まれ。名前と用件を言え」
髭面の老人だった。背が低く、肩幅だけが広い。目は鋭いが、声に敵意はない。警戒はしているが、拒絶はしていない。
「カイ・セヴァル。ラストヘイムから来た。東に向かう途中だ」
「ラストヘイムか。遠いな」
老人はカイの残殻を見上げた。それからトワのシルフを見た。最後にガルドの作業車を見た。
「通り客は歓迎するが、長居はするな。食い扶持が足りない」
ミハイル。それがこの集落の長老の名だった。
* * *
残殻を集落の端に停め、コックピットから降りる。
地面を踏んだ瞬間、ラストヘイムとは違う土の硬さが靴底に伝わった。粘土質だ。雨が降れば泥濘になるだろう。だが今は乾いて、ひび割れた地面が灰白色の模様を作っていた。
子供たちが走ってくる。
5人。いや、6人。最年少は5歳くらいだろうか。裸足の子が2人いる。靴が足りないのだ。その子たちがカイの残殻を見上げて、目を輝かせた。
「鉄殻だ!」
「でっかい!」
「触っていい?」
カイは「足元だけな」と答えた。子供たちは歓声を上げて残殻の脚部に群がった。錆びた装甲板を叩き、関節部の隙間を覗き込み、指で触れた泥を互いに見せ合っている。
鉄殻拾いが得意だという少年が、カイに使えそうな部品を見せてくる。砂に磨かれた小さなギアと、折れたボルトと、何かの配線の切れ端。
「これ、使える?」
カイはギアを手に取った。汎殻の肘関節に使われる標準規格のギア。摩耗は激しいが、まだ歯が残っている。
「使える。ありがとう」
少年の顔が明るくなった。リックと同じ顔だ。鉄の破片に価値を見出せる子供の、まっすぐな目。
* * *
共同窯で焼かれた灰域パンが、夕食に出された。
どんぐり粉のスープと一緒に、木の器で渡される。パンは硬く、噛むと顎が痛い。だが中は温かい。どんぐり粉のスープは薄いが、塩気がある。塩は貴重品だ。それを客に出すのは、灰域の礼儀だった。
「ラストヘイムの芋パンよりましだ」
ガルドが言った。カイは否定しなかった。ラストヘイムのパンは芋のデンプンが多く、水っぽい。ここのパンは硬いが、穀物の香りがする。
トワは黙って食べている。小柄ではない女だが、食事の量は少ない。必要な分だけを口に運び、残りは手をつけない。傭兵の習慣だろう。いつ次の食事にありつけるか分からない暮らしが、体に染みついている。
ミハイルが焚き火の向こうに座り、食後の話をした。
「ここには病院もない。子供が熱を出したら、錆苔を煎じて飲ませるだけだ。去年の冬、二人死んだ。どっちも五つにもなってなかった」
カイは黙った。ラストヘイムにはクレアがいる。医師がいるだけで、どれほど恵まれているか。
「クレスタの行商がたまに薬を持ってくるが、値段が法外でな。干し肉一年分と、解熱剤ひと瓶。命の値段がそれだ」
焚き火が爆ぜた。火の粉が灰色の空に舞い上がり、すぐに消えた。
ミハイルは続けた。
「それでも俺たちはここにいる。統治機構体の管区に行けば医者はいるだろう。だが人間扱いはされない。難民収容所で番号を振られて、労働力として使い潰される。それなら、ここで死んだ方がましだ」
ガルドが赤葉の煙草に火をつけた。辛い煙が夜空に昇る。ガルドは何も言わなかった。言えることがなかったのだろう。
* * *
翌朝、出発の支度をしていると、ミハイルが近づいてきた。
カイの耳元に顔を寄せる。焚き火の煤と、乾いた泥の匂いがした。
「東に傭兵の一団がいる。たちが悪い。名前は知らん。旧旗を掲げている。気をつけろ」
旧旗。大崩落以前の国家の旗を掲げる連中がいる。旧世界の正統性を主張する無法者たちだ。灰域の厄介者。
「ありがとう」
カイは頭を下げた。ミハイルは手を振った。それだけだ。名もなき集落の長老は、それ以上の言葉を持たない。だがその短い警告に、40人の集落を守ってきた老人の経験が詰まっていた。
残殻のコックピットに乗り込む。計器を確認する。燃料残量42%。東へ。
カイの背筋に、冴覚とは違う種類の冷たさが走った。




