|灰域《アッシュランド》を往く
第1部「鉄錆の邂逅」 最終話。
ラストヘイムが遠くなる。
残殻のセンサーに映る後方の画像が、砂塵と距離に霞んでいく。集落の外壁。鉄殻の残骸が点在する廃墟群。その向こうに、広場の人々がまだ立っているのが見える。見えなくなるまで、カイは後方センサーを切らなかった。
旧世界の都市の残骸を抜ける。
コンクリートの壁が崩れ落ち、鉄骨がむき出しになったビルの残骸が、灰色の大地に歯のように突き出している。アスファルトが割れた道路の上を、残殻の重い足が踏みしめる。ひび割れの隙間から灰原草が伸びている。秋の白い穂が、機体の歩みに揺れた。
カイは残殻のコックピットから外を見た。ラストヘイムの外の灰域を、本格的に走るのは初めてだった。
通信にガルドの声が入る。
「巡航速度を維持しろ。無駄に加速するな。燃料がもたん」
「分かってる」
「分かってるなら口を開くな。通信も電力を食う」
ガルドの口調はいつも通りだった。飄々として、ぶっきらぼうで、その奥に不器用な心配が滲んでいる。
旧型作業車が残殻の右後方を走っている。六輪が砂を巻き上げ、排気管から黒い煙が薄く流れている。荷台には工具箱と予備部品。テオの工具箱も、あの中にある。
* * *
枯れた河川を渡った。
かつては水が流れていたのだろう。河床には丸く磨かれた石が敷き詰められ、その間を灰原草が埋めている。川幅は50メートルほど。残殻の足が石を踏むたびに、乾いた音が響く。水はない。灰域の河川の大半は、大崩落の時に水脈が変わって枯れた。
河川を越えると、鉄道橋が見えた。
錆びた鉄骨の骨格が、灰色の空を背景に架かっている。橋桁の一部が崩落し、レールが宙に垂れ下がっている。欄干に「A7」の文字。旧世界の高速道路ではなく、鉄道の路線番号だった。
あの偵察で見た橋だ。ガルドと二人で、生身で灰域を歩いた日。あの日、ガルドが東の空を指差して言った。「ストーンクロス。灰域最大の独立集落。テオの足跡を追うなら、まずあそこだ」。
橋の下をくぐる。残殻の頭部が鉄骨に触れそうな高さだった。錆苔がこびりついた梁から、赤茶色の粉が落ちてくる。コックピットの天蓋に当たって、細かい音を立てた。
胸のポケットから、テオの地図を取り出した。
折り畳みの紙を片手で広げる。操縦桿を握ったまま、右手だけで。テオの手書きの注記が、褪せたインクで地図の上に散らばっている。「A7橋 通過可 残殻サイズ注意」。父は同じ場所を通ったのだ。同じ橋の下を、同じように通過した。
カイは地図を胸に戻した。
* * *
灰域の広さに、カイは圧倒されていた。
ラストヘイムの周辺は、廃墟群と灰原草の野が入り混じった景色だった。だが集落を離れるにつれて、景色が変わっていく。廃墟の密度が下がり、大地が広がる。鉄錆色の土がどこまでも続き、灰原草の白い穂が風に波を作っている。点在する鉄殻の残骸は、大崩落の時に撃破されたまま放置されたものだろう。半ば砂に埋もれ、灰原草に覆われ、大地の一部になりかけている。
朽ちた鉄殻の残骸が、墓標のように立っている。頭部を失った汎殻の胴体。片腕だけが空を指す残殻の残骸。崩れた装甲板の隙間から、灰域鴉が飛び立った。
ここにはかつて文明があった。
人が住み、働き、暮らしていた場所が、今は鉄錆と瓦礫の荒野になっている。大崩落が何を奪ったのか。旧世界の道路標識が砂に半分埋もれ、読めない文字を灰色の空にさらしている。信号機の残骸が、根元から折れて地面に転がっていた。
カイは生まれてから一度も、この荒野の外を知らない。だがこの荒野の「外」が、ラストヘイムを脅かしている。セルヴィスも、グランヴェルトも、クレスタも。統治機構体という名の巨大な力が、灰域の頭上に影を落としている。
通信にガルドの声が入った。
「お前の親父はこの景色を見て、灰域のために戦うと決めた」
カイは黙って、灰色の地平線を見つめた。
「テオは言ってた。『この大地を見捨てた連中に、もう一度ここを見せてやりたい。見捨てたものの重さを、知らしめてやりたい』ってな」
「親父らしい」
「ああ。あいつはそういう男だった。不器用で、真っ直ぐで、自分を犠牲にすることに躊躇がなくて」
ガルドの声が、僅かに掠れた。
「……お前は、あいつと同じにはなるな」
カイは答えなかった。答えられなかった。同じにならないと約束できるほど、自分のことを分かっていない。
* * *
午後になった。
機関温度計が緑の中間域に安定している。燃料残量は52%に減った。巡航速度で消費する燃料は、計算通りだった。残殻の関節は今のところ異常なし。だが左腕の動力伝達系から、時折かすかな異音が聞こえる。ガルドが警告した通りだ。負荷をかければ落ちる。
風向きが変わった。
南東から吹いてくる風に、鉄の匂いが混じっている。鉄殻の残骸の匂いではない。もっと新しい鉄の匂い。カイの鼻が、無意識にそれを拾った。
遠くの地平線に、煙が一筋見えた。
人の気配がある。集落か、野営地か。テオの地図を確認する。この付近に集落の印はない。だが「通行注意」の注記がある。テオが通った時にも、何かがあったのだろう。
「ガルド。南東に煙が見える」
「見えてる。距離は20キロ以上だ。こっちには来ない。迂回するぞ」
残殻の進路を北寄りに変えた。灰域の旅は、直線では進めない。危険を避け、水源を辿り、廃墟を伝いながら、蛇行して進む。テオの地図があるからこそ、この蛇行が可能だ。父が歩いた道を、カイは機械の足で辿っている。
* * *
夕暮れが来た。
灰色の空が、西から鉄錆色に染まっていく。地平線の向こうに太陽が沈む瞬間、灰色と赤が混ざり合って、灰域だけの色を作る。美しいとも醜いとも言えない色。ただ、ここにしかない色だ。
東の方角に、丘陵地帯の稜線が見え始めた。
灰原草の海が途切れ、岩と土の稜線が灰色の空を区切っている。ガルドが通信を入れた。
「あの先にストーンクロスがある。灰域最大の独立集落だ」
カイはリックの双眼鏡を手に取った。レンズを覗く。丘陵の稜線の向こうに、何かが見える。建物の影か。煙か。遠すぎて判然としない。だが、そこに人の営みがある。テオが歩いた先に、何かがある。
「東南東に300キロ。巡航速度で約8時間。今日はここで野営する」
ガルドの作業車が止まった。朽ちた鉄殻の残骸の影に車体を寄せ、風よけにする。カイも残殻を停止させ、コックピットから降りた。
地面に足をつけると、灰域の大地の硬さが靴底を通じて伝わった。鉄殻のコックピットでは感じられない情報。ガルドがかつて言った言葉を思い出す。「足の裏で世界を知る。それが冴覚の始まりだ」。
ガルドが焚き火を起こした。廃材の木片と灰原草の枯れ茎を燃やす。小さな炎が、夕暮れの灰色を橙色に染めた。二人で干し肉を齧り、浄水結晶で浄化した水を飲んだ。
振り返ると、西の地平線にラストヘイムがあるはずだった。だがもう、何も見えない。灰色の大地と灰色の空が溶け合う境界線が、果てしなく続いているだけだ。
ラストヘイムが、完全に見えなくなった。
カイは焚き火の向こうに、ガルドの横顔を見た。赤葉の煙草を咥え、炎を見つめている。彫りの深い顔に刻まれた皺が、炎の揺れに合わせて動いている。この男が隣にいる。父の親友が、父の息子と共に、父の足跡を追っている。
胸のポケットにテオの地図。腰にタリアの通信機。首にリックの双眼鏡。パックにロイドの食料とクレアの薬。背中にマーサの言葉とゲオルグの手の重み。
一人ではない。ここに立っているのは一人だが、背中には200人の集落がある。
焚き火の火の粉が、灰色の空に舞い上がった。
星は見えない。雲が覆っている。だがその雲の向こうに、星がある。灰域の空でも、雲の上には星がある。タリアと見た、あの雲の切れ間の光。
ガルドが酒瓶を取り出し、一口飲んで、カイに差し出した。カイは首を横に振った。ガルドは「まだ早いか」と呟いて、自分で飲んだ。
風が吹いた。灰原草の穂が揺れる音が、荒野に広がっていく。
明日も東に進む。明後日も。その先に何があるか分からない。テオの足跡が途切れるかもしれない。セルヴィスの追手が来るかもしれない。灰域の危険が、想像もつかない形で立ちふさがるかもしれない。
だが今は、この焚き火がある。隣にガルドがいる。胸に父の地図がある。
通信機が鳴った。ガルドが受ける。短いやり取りの後、煙草の煙を吐いた。
「明日の午前に、合流する人間がいる。トワ・カジャ。灰域随一の独立傭兵だ。俺が旅の護衛を頼んだ」
「知り合いか」
「昔、テオと一緒に仕事をした。腕は確かだ」
ガルドはそれ以上語らなかった。カイも聞かなかった。明日になれば分かる。
カイの旅が、ここから本当に始まる。




