行くなら、帰って来い
出発の朝は灰色だった。
空はいつもと同じ鈍い曇天で風は弱く、砂も鉄粉もほとんど飛んでいない。穏やかな朝だった。灰域では珍しいほどに。空気は冷たく乾いて吸い込むと肺の奥に鉄の味が微かに残る。いつもの味だ。ここで生まれてからずっと吸ってきた空気の味。
カイが広場に出ると人が集まっていた。
大袈裟な送別会ではない。ただいつもの朝の延長として自然に人が寄ってきた。共同水場で顔を洗い、灰域パンを齧り、大鍋の残りの朝食を啜りながら広場の端に集まっている。200人の集落の半分近くがそこにいた。
誰も「行くな」とは言わない。誰も「頑張れ」とも言わない。灰域の人間は出て行く者を引き止めない。引き止めても仕方がないことを30年の歳月が教えているからだ。テオが出て行った日もきっとこうだったのだろう。7年前の朝のことをカイは覚えていない。父が出て行ったことだけが記憶に残っている。
リックが駆けてきた。
黒髪を伸ばした声変わりの途中の少年がカイの前で足を止める。息を切らして頬が赤い。走ってきたのだ。集落の端から全力で。手に何かを握りしめていた。
「カイ兄」
リックの唇が動いたが音にならない。もう一度動いてまた止まる。喉仏が上下していた。
代わりにリックは手の中のものを差し出した。
双眼鏡だった。
リックの宝物。廃墟の奥で見つけた旧世界の光学機器だ。レンズに小さな傷があるがまだ十分に使える。リックはいつもこれを首から下げて灰色の地平線を眺めていた。鉄殻の残骸を探す時も灰域鴉の群れを追う時も、いつもこの双眼鏡が胸にあった。
「これ、持ってけ」
リックの声が裏返った。
「遠くが見えるから。危ないやつが来たら、早めに分かるから」
「お前の宝物だろ」
「いい。カイ兄が帰ってきたら返してもらう」
鼻の頭が赤く、唇を噛んでいる。
「だから、絶対帰って来い」
カイは双眼鏡を受け取った。紐がまだ温い。リックがさっきまで首から下げていた温度だ。レンズに灰色の空が小さく映っている。リックがいつも覗いていたこの先の景色だ。
受け取ってしまってからカイは少し後悔した。これはリックの宝物だ。連れて行ってくれと頼んだのを断ったばかりなのに、その上宝物まで奪っていく。受け取らない方がよかったのかもしれない。だが突き返せばそれはそれでリックを傷つける。喉の奥に苦いものが残った。
「預かる」
カイはそれだけ言った。リックは強く何度も頷いた。頷くたびに堪えていた涙が睫毛の先で揺れたが落ちなかった。
昔この子が廃材置き場で迷子になって泣いていたのをカイが見つけたことがある。あの時はまだ膝の高さだったが、今はもうカイの肩のあたりまで背がある。次に会う時にはもっと伸びているのだろうか。それとも――。カイは双眼鏡の紐をぐっと握り直した。
* * *
広場の中央でマーサが杖をついて立っていた。カイに向かって軽く手を上げる。「元気でね」と口が動いた。声は聞こえなかったが読み取れた。首に巻いた手編みのマフラーは娘が編んでくれたものだ。
クレアは広場の隅に立っていた。腕を組み丸眼鏡の奥でカイを見ている。黙って頷いた。それだけだった。
ロイドは広場から離れた場所にいた。脇に帳簿を挟んだまま倉庫の壁に背をつけて腕を組んでいる。目は合わせない。カイがロイドの方を見た時ロイドは視線を逸らしたが、口が動いた。
「水道の修理、帰ったら手伝えよ」
小さな声だった。広場の雑踏にかき消されそうなほど小さな声だったが、カイの耳には届いた。
* * *
最後にゲオルグが来た。
白髪を短く刈り上げた大男が広場の人垣を割ってカイの前に立った。朝の光が火傷の引き攣れた右頬を照らしている。左耳の欠損が影を作り、懐中時計が胸の前で揺れている。
ゲオルグはカイの肩に手を置いた。
太く硬く温かい大きな手だった。指の関節が節くれ立ち、掌に鋳造工の胼胝が残っている。30年かけてこの集落を建てた手だ。
カイはその手の重みを肩で受け止めた。
「行くなら、帰って来い」
ゲオルグの声は低かった。それ以上は何も言わず、肩に置いた手に一度だけ力がこもった。
カイは頷いた。
言葉は出なかった。声にすれば何かが崩れそうだったが目は逸らさなかった。ゲオルグの黒い目をカイの灰色の目が真っ直ぐ見つめた。
その目が何を堪えているのかカイには半分しか分からなかった。だがふと思った。父も誰かにこう言われて出て行ったのだろうか。
ゲオルグが手を離して一歩下がった。それきり動かなかった。
カイは振り返った。
広場の人々。朝の光の中で200人の集落がカイを見ていた。生まれてから一度も離れたことのない場所。崩れかけた外壁も廃材で継ぎ接ぎした屋根も共同水場の錆びたポンプも、全部目をつぶってどこにあるか言える。
子供たちが手を振り、大人たちが腕を組んで立っている。鉄殻の残骸の上で灰域鴉が一羽鳴いた。声は風に流されてすぐ聞こえなくなった。
ここを離れたらこの景色をしばらく見られない。当たり前すぎてこれまで一度も「見納め」だと思って見たことのなかった景色を、カイは目に焼きつけようとした。だが焦るほど輪郭がぼやけていく気がした。
* * *
受け取った双眼鏡をカイはコックピットに乗り込む前に首から下げた。リックがいつもそうしていたように。革の紐が胸の上で軽く揺れる。
残殻のコックピットに乗り込み、破れたシートに腰を沈める。いつもの感触だが、今日はこの席がいつもより遠くへ自分を運ぶ。
操縦桿を握ると冷たい金属の感触が掌に馴染む。右手の親指が操縦桿の上に乗った。教わった覚えはないが父の癖だ。体が勝手にそうする。
エンジンが唸りを上げ、機関温度計が青から緑に変わる。燃料、弾薬、関節負荷。表示はいつも通りだ。左腕の動力伝達系だけが黄色の警告灯を点滅させているが、今は走れる。それで十分だ。
隣にガルドの旧型作業車が並んだ。六輪の装甲トラックのエンジンが低い振動を地面に伝えている。ガルドが窓から顔を出し、赤葉を咥えたまま親指を立てた。
カイは一度だけ振り返った。
残殻のセンサーが集落の広場を映し出す。
リックが手を振っている。双眼鏡のない首元が妙に軽そうに見えた。
タリアが腰に手を当てて立っている。いつもの姿勢で泣いてはいない。風が茶色がかった黒髪を煽っている。昨夜の屋上で待ってるとは言わないと言った女だ。約束どおり見送りに泣き顔は持ってこなかったが、腰に当てた手が拳を握っているのがセンサー越しでも分かった。
ゲオルグは微動だにしない。大きな体が広場の中央に根を張ったように立っている。懐中時計を握った手だけが僅かに震えていた。
カイは前を向いた。
操縦桿を押し込むと残殻が一歩を踏み出した。砂塵が舞い上がる。ガルドの作業車がその後ろに続いた。
集落の外壁を越える。住民が打ちつけた板の修復跡が足元を後ろへ流れていった。やがて外壁も人影も機体の背後に遠ざかる。灰原草の白い穂が風に揺れている。灰色の空の下、鉄錆色の大地がどこまでも東に広がっていた。
振り返りたい衝動をカイは抑えた。
振り返れば戻りたくなる。
だから前だけを見た。




