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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio Yodaca
鉄錆の邂逅

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マーサの贈り物

 マーサ・ウィンターの住居は集落で最も古い建物の一角にあった。

 旧世界のアパートメントの1階。壁には罅割れたタイルが残り、天井の隅にかつて照明が据えつけられていた穴がある。窓際の棚にマーサが写し綴じた旧世界の教科書が積まれている。背表紙はどれも擦り切れ、何度も開かれた角だけが丸くなっていた。

 カイが入るとマーサは窓際の椅子に座っていた。白髪を頭の上で丸く結い上げ、手には茶碗を持っている。灰域(アッシュランド)茶。灰原草の根を乾燥させて煮出した薄い琥珀色の飲み物だ。味はほとんどないが温かい。


「まあ、お茶でも飲みな」


 マーサの口癖だった。カイは木箱の椅子に腰を下ろし、差し出された茶碗を受け取った。土の匂いがする湯気が顔にかかる。

 この部屋には子供の頃に何度も来た。集落の子供は皆マーサのところで字を習う。カイもここで読み書きを覚えた。あの頃と部屋は何も変わっていない。罅割れたタイルの数も、教科書の積み方も。変わったのは椅子に座るマーサが少しだけ小さくなったことくらいだ。


「明日出るんだってね」

「ああ」

「ガルドも一緒に行くらしいじゃないか。あの男が行くなら、少しは安心だ」

 マーサはそう言ってゆっくりと茶をすすった。皺だらけの喉がこくりと動く。深く刻まれた目尻に穏やかな光が宿っていた。

 この人がいくつの冬を越したのかカイは正確には知らない。ただ、字を教わっていた頃、マーサが時々ふっと窓の外を見て黙り込むことがあった。あれが誰の顔を探していたのか子供の頃は分からなかったが、今はなんとなく分かる気がする。マーサもまたこの灰域(アッシュランド)で誰かを見送ってきたのだ。


「あんたを呼んだのは、渡すものがあるからだ」


 マーサは椅子から立ち上がり壁に向かった。壁には旧世界の地図の断片が何枚か貼られている。その中から一枚を丁寧に剥がした。壁に残った糊の痕が白い四角を残す。


「テオが残していったものだ」


 その名前を聞いた瞬間、カイの手が止まった。茶碗の中の液体が微かに揺れた。


「あの子がここを出る前に、『マーサ先生に預けておく』と言った。7年前だ。カイ、あんたが10歳の時」

 マーサがカイの手に地図を置いた。

 旧世界の道路地図だった。「中欧」と印刷された地域の折り畳み式の地図。紙は薄く端が破れかけている。しかし一部に手書きの注記があった。


 テオの筆跡だった。

 カイにはそれが分かった。父が作業場で部品の型番を書き留める時の、少し右に傾いた癖のある字。ナイフの先で引っ掻いたような不器用な線。その字で集落の位置が丸で囲まれ、水源の場所が三角で示され、危険地帯に斜線が引かれていた。

 「狼多い」「崩落注意」「旧軍施設 近づくな」「ここの水は飲める」

 短い言葉ばかりだ。だが「ここの水は飲める」と書くために父はその水を口に含んだのだ。そう思うと薄い紙を持つ指先が自然とこわばった。


「テオはあんたが物心つく前から、いつかこの地図が必要になると思っていた」


 マーサの声は穏やかだったが、その奥のものはカイには読めなかった。

「あの子は先のことを考える子だった。戦場から帰るたびに笑顔が減って、口数が少なくなって、それでも子供のあんたの前では笑おうとした。あの子がここを出る時、私には言ったよ。『カイが大きくなったら渡してやってくれ。俺は、灰域(アッシュランド)のどこにいても帰る道を知りたかった。あいつにも、同じものをやりたい』って」


 カイは地図を両手で持っていた。

 指先が微かに震えているのが分かった。父の字をこうしてまともに見るのは何年ぶりだろう。父の顔はもう曖昧にしか思い出せない。声も笑い方も断片しか残っていない。なのにこの字だけは見た瞬間に「父だ」と分かった。茶碗を置いた手が地図の縁を強く挟んでいた。

 インクは褪せている。紙の折り目は擦り切れている。だが線は確かだ。テオの手がこの紙の上を動いた。ペンを持ち、集落の位置を記し、水源を印し、危険を書き留めた。その手は右手の指先の感覚を失いかけていたはずだ。それでも書いた。

 この地図を残した時、父は何を思っていたのか。いつか息子が自分を追って灰域(アッシュランド)を歩くと本当に思っていたのか。今となっては父に訊くこともできない。


「あんたが見たものは、あんたが覚えてな。それだけだ」


 マーサは茶をひと口すすった。それ以上は何も言わなかった。

 カイは何か言うべきだと思った。礼を言うべきなのか、それとももっと父のことを聞くべきなのか。だが言葉が出てこなかった。喉の奥が詰まって、ただ地図を握りしめることしかできない。

 マーサはそれを咎めなかった。子供が言葉に詰まるのをこの人は長いあいだ見守ってきたのだろう。ただ静かに湯気の立つ茶碗を両手で包んでいた。

 カイは地図を父が折ったのと同じ折り目に沿ってゆっくりと折り直した。紙の擦り切れた縁が指の腹をかすかに引っかいた。



 * * *



 マーサの住居を出ると外はもう夕暮れだった。集落の広場にクレアが立っていた。

 ベージュのコートを羽織り、手には小さな布袋を持っている。診療所はこの広場から離れている。カイの姿を見つけるとクレアはまっすぐ歩いてきた。待っていたのだと分かった。


「旅の保険」


 クレアが袋を差し出した。カイが受け取って開けると小瓶に入った消毒液、包帯の巻き、解熱剤の錠剤が数粒、そして縫合針と糸が入っていた。

「使わないのが一番だけど。灰域(アッシュランド)の怪我は感染が怖い。傷口はすぐ洗って消毒しなさい。水がなければ浄水結晶で作った水を使うこと」

「解熱剤は飲みすぎるな。一日に二度まで。それ以上は体を壊す。縫合針と糸は最後の手段。自分で縫えないなら、ガルドにやらせなさい。あの男は不器用に見えるが、手先は正確だから」

「ありがとう」

「お礼はいい」

 クレアはぶっきらぼうに言った。だが布袋の中身は明らかに最低限を超えていた。集落の備蓄からこれだけの薬を出すのは簡単ではないはずだ。それをこの人は黙って持ってきた。


 クレアは一瞬だけ眼鏡の奥で目を細めた。


「カイ。あんたは17歳だ。まだ体が出来上がっていない。冴覚(さいかく)を使いすぎるな。頭痛が来たら、戦闘中でも引きなさい。無理をすれば、戻れなくなる」

 戻れなくなるという言葉にカイは何も返せなかった。父の名前が口の中で重く沈んだ。

冴覚(さいかく)は5分以内。それを守りなさい」

 念を押すような言い方だった。カイは頷くしかなかった。守れる自信は正直なところなかった。戦闘の最中に頭痛がしたからといって引けるものなのか。だがそれは口にしなかった。


 クレアはそれだけ言って踵を返し、診療所に戻っていった。

 夕陽を背に歩くその背中が小さく見えた。左手の薬指と小指が妙な角度で曲がっている。あの手のことをカイは一度も訊いたことがなかった。訊いてはいけない気がした。この集落に流れ着いた者はたいてい何かを置いてきている。


 遠ざかる背中を見送ってからカイは薬の袋を旅行用パックに突っ込んだ。

 夕陽が集落の壁を赤く染めている。広場では住民が井戸の周りで水を汲み、子供が走り回っている。いつもと変わらない夕暮れだ。明日になればカイはこの景色の外にいる。

 腰に通信機、パックに食料と薬。胸には父の地図。一人で歩くつもりだった。だが肩にかけたパックはずっしりと食い込んでくる。


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