出発の準備
残殻の関節から錆苔を削り落とす。
鉄の粉が朝の風に散った。ガルドの作業場には朝から金属を打つ音とやすりの擦過音が響いている。出発の準備だった。
ガルドは残殻の脚部フレームに潜り込み、左膝の関節軸受けを検分していた。赤葉の煙草を口元に咥えて目を細める。指先で軸受けの回転を確かめ、爪で表面を引っ掻いた。
「左膝は保つ。右膝が怪しい。砂を噛んでる」
「昨日削り直した」
「削りが甘い。もう0.03ミリ広げろ」
カイはやすりを手に取った。0.03ミリ。指先の感覚だけが頼りの世界だ。削りすぎれば遊びが大きくなって関節がぐらつき、足りなければ砂が噛んで焼きついてしまう。
軸受けにやすりを当て、一定の力で同じ角度を保って引く。金属の粉が指の腹に細かく溜まっていく。何度か削っては指で表面をなぞって確かめた。ガルドに教わったやり方だ。目で見るよりも指で読む方が確かだとガルドはいつも言うが、薄暗い作業場では確かに目より指の方がよく分かった。
削り終えてガルドに見せると、彼は無言で軸受けを受け取り爪で表面を弾いた。跳ね返る音をしばらく聞いている。
「いいだろう」
短く言って軸受けを脚部フレームに戻す。それだけでカイは少し誇らしかった。ガルドの「いいだろう」を引き出すのは簡単ではないのだ。
残殻は走れる程度には回復していた。ガルドが急ピッチで修理を進めた結果だが、限界は明確だった。
「いいか、よく聞け」
ガルドがフレームの下から這い出し、油まみれの手で残殻を指差す。
「こいつは長距離の戦闘には耐えない。左腕の動力伝達系は応急修理だ。負荷をかければ肘関節から先が落ちる。右脚は膝下の装甲が1枚欠けたままだ。フレームが露出してる。砲弾が掠めただけで脚を持っていかれる」
ガルドの声は技匠のものだった。飄々とした普段の口調ではない。機体の前ではいつもこの声になる。
「壊れたら、その場で捨てろ。しがみつくな。鉄殻は道具だ。お前の命の方が重い」
カイは頷いた。
この機体には何度も命を救われてきた。野犬の群れに囲まれた時も砂嵐に巻かれた時も、この残殻が連れて帰ってくれた。あちこち継ぎ接ぎだらけでまともな鉄殻とは呼べない代物だが、カイの手に馴染んでいる。しかし、その機体に「壊れたら捨てろ」と言わなければならないほどこれから向かう先は遠かった。
カイは残殻のコックピットに上がって計器に目を走らせ、シートの破れた革に腰を沈める。操縦桿のグリップはいつもどおり手のひらの形に凹んでいた。表示はどれも緑だが、この緑が嘘なのは知っている。今は動くというだけの緑だ。
燃料計は68%。ストーンクロスまでは遠い。途中で何度か廃棄された鉄殻のタンクから抜くなり集落で交易するなりしなければ保たない。だが灰域に給油施設はなく、どこで燃料が手に入るか確実なものは何もなかった。
* * *
作業場の外に出るとタリアが通信機の最終調整をしていた。
通信小屋の前でポータブル通信機のアンテナを伸ばし、周波数を合わせている。横には昨夜カイに渡した通信機と同型の試験機が置かれていた。
「どうだ」
「悪くない」
タリアの指がダイヤルを微調整する。半田ごての跡が光る指先だ。
「周波数帯を標準の3倍に広げた。灰域の民間帯域と、カラス商隊が使う交易帯域をカバーしてる。暗号化は初歩的なスクランブルだけど、セルヴィスのタクネットに引っかかることはない。向こうはもっと高い帯域を使ってるから」
「傍受される可能性は」
「ゼロじゃない。でも灰域の民間通信なんて、管区の連中は聞いてないよ。雑音だと思ってる」
ダイヤルを回す手つきに迷いはない。通信機の中身を隅々まで把握している者の手だ。
「完璧じゃないけど、ないよりマシ」
タリアは肩をすくめた。ないよりマシ。灰域ではそれが最上等という意味だ。
タリアは横に置いた試験機と手元の通信機を両方とも起動し、片方に向かって何か呟いた。雑音の向こうからその声が僅かに遅れて返ってくる。きちんと繋がっていると確かめると、彼女は満足そうに頷いてスイッチを切った。
* * *
昼過ぎ、ロイドが倉庫から食料と水の旅行用パックを持ってきた。
黙って作業場の入口に置いていく。言葉はなかった。カイが中身を確認すると、干し肉に灰域パン、浄水結晶がきっちり3日分入っていた。一切れの無駄もないロイドらしい詰め方だ。
「これ以上は出せない。集落の備蓄に余裕はない」
ロイドは倉庫の方から事務的な声だけを投げ、姿は見せなかった。顔を合わせたくなかったのかただ忙しかったのかは、カイにも分からない。
だがパックの底に何かが入っている。
布に包まれた小さな塊を取り出して開けると、薄く切って乾燥させたリンゴの切片が数枚入っていた。ストーンクロス・リンゴの干しリンゴ。カラス商隊が稀に持ち込む灰域の贅沢品だ。ここの食卓にはまず出てこない甘さであり、集落の備蓄にこんなものはない。ロイド自身の取り分だろう。
カイは何も言わずパックに戻した。
* * *
夕暮れが近づいていた。
ガルドが作業場からブーツを引っ掛けて出てくると、旧型の作業車の横に立ってカイを見た。
作業車は鉄殻ではなく六輪の装甲トラックだ。旧世界の軍用車両の残骸をガルドが自ら修理したもので、荷台には工具箱と予備部品が積まれている。燃料は残殻と同じ精製重油だった。
カイはその作業車を子供の頃から知っている。ガルドが廃材置き場からエンジンブロックを引きずってきて、何ヶ月もかけて動くようにした車だ。集落の外へ廃材を取りに行く時に何度か乗せてもらったが、ガルドがこの車で集落を長く離れるのはカイの記憶にない。
荷台に積まれた工具箱の中にテオの古い金属箱が混じっているのが見えた。ガルドはそれを持っていくつもりなのだ。
「お前を、一人で行かせるわけにはいかん」
ガルドの声はいつもの飄々とした調子だった。
カイは驚き、聞き返そうとする。
「技匠なしでどこまで走れると思ってる」
ガルドは赤葉に火をつけて煙を吐いた。
「残殻が壊れたら誰が直す。お前の腕は悪くないが、フィールドでの修理経験がない。砂漠のど真ん中で関節が焼きついたら、やすり一本じゃ直せんぞ」
ご立派な理屈だ。だが煙草越しに細めたガルドの目は、理屈なんか一つも信じちゃいない目だった。
「それに」
ガルドは酒瓶を棚に戻しながら、背を向けたまま言った。
「テオの息子を一人で送り出したら、あいつに顔向けができん」
カイは何も言えなかった。
喉の奥がつかえて声にならない。代わりにひとつ頷いた。ガルドは背を向けたままだが、それでよかった。
夕陽が作業場のシャッターを赤く染めている。
ガルドは作業車のエンジンを一度かけ、異音がないか確かめていた。低い駆動音が夕暮れの集落に響く。カイはその音をしばらく聞いていた。明日の朝ここを出る。残殻とガルドの作業車で東に向かう。ストーンクロス。テオの足跡がそこにある。
集落の方からは夕食の支度の匂いが流れてきた。灰域パンの焼ける匂いと豆を煮る湯気。この匂いを嗅ぐのもしばらくは最後だ。
カイは残殻のコックピットに手をかけた。鉄の冷たさが掌に伝わる。何度この機体に乗り込んだかもう数えきれないが、集落の外へ何日も出るのは初めてだった。
この機体で灰域を渡る。明日の朝、夜明けと共に。




