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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio Yodaca
鉄錆の邂逅

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ロイドの正論

 ロイドの執務場所は集落の倉庫の一角にあった。

 木箱を積み上げた棚に帳簿と在庫リストが並んでいる。干し肉の樽、浄水結晶の袋、廃材の分類箱。鉄錆と乾燥した穀物と埃の匂いがこの場所にも染みついている。ロイド・ハートは壁際の机で帳簿を広げたままカイが入ってくるのを待っていた。

 一晩中数字と向き合っていたのだろう。机の上には計算尺と書き殴られた数字の列が散らばっている。同じ数字を何度も書き直した跡があった。


「座れ」


 ロイドが顎で木箱を示すと、カイは腰を下ろした。木箱の角が尻に食い込む。倉庫の薄暗がりに干し肉の塩と鉄粉の匂いが漂っていた。

 この倉庫には子供の頃から何度も出入りした。廃材を運び込み、使える部品を選り分け、ロイドに在庫を報告する。ロイドはいつもこの机でカイの持ち込んだ品物を一つずつ数え、帳簿に書き込んでいた。その背中をカイは何度も見てきた。

 ロイドの目が正面からカイを捉える。今日のロイドは品物を数える時の目ではなかった。


「最後にもう一度だけ言う」


 最後にという言葉にカイは引っかかった。もう何度もロイドはこの話をしてきた。今度こそ決着をつけるつもりなのだろう。

 ロイドの声は平坦だった。配給量を読み上げる時と同じ調子だ。

「なぜ俺たちが巻き込まれなきゃならない」

 カイは黙っていた。

「お前は父親の足跡を追いたいだけだろう。テオ・セヴァルが何を残したのか、何のために消えたのか、知りたい。それは分かる。だがそれは個人の感情だ。200人の集落の安全と天秤にかけていいのか」


 ロイドの言葉は鋭い。帳簿を閉じた手が机の上で拳を作っている。右手の親指の爪が黒く変色していた。廃材運搬の事故で潰した爪だ。あの時、爪が剥がれかけたロイドの指をカイが応急処置した。ロイドは痛いとも言わずにその日のうちにまた運搬に戻った。そういう男だ。

 カイは黙っていた。返す言葉がなかった。全部数字の裏付けがある。ロイドはカイが一番触られたくない場所を正確に突いてきた。

「お前がストーンクロスに行って、テオの足跡を追って、セルヴィスの目に留まったとする。そうなれば連中はラストヘイムを起点に追跡する。お前がどこに行こうと、出発地はここだ。消せない」


 ロイドは椅子の背に体を預けて天井を見上げた。剥き出しの梁に錆が浮いている。この倉庫もいつ崩れるか分からない。

「備蓄はあと20日分。浄水結晶は1週間分を切ってる。カラス商隊が来なけりゃ、来月には水の質が下がる。そんな集落が、統治機構体(とうちきこうたい)に目をつけられてどうなると思う」

 数字が淡々と並べられる。だがその一つ一つがロイドが寝ずに数え直した数字だ。カイはそれを知っていた。ロイドは脅しで数字を使う男ではない。本当に切迫しているから数字を出す。


 倉庫の薄暗がりでロイドの目だけが光っていた。濃褐色の目。ゲオルグと同じ色なのに父のような落ち着きはどこにもない。

 カイはしばらく考えてから口を開いた。

「お前の言うことは正しい。俺がいなくなっても、ここが標的じゃなくなるわけじゃない。コルヴァスは位置を知ってる」

「だったら」

「だからこそ、外に出る。ここにいて壁を厚くするだけじゃ、いつか潰される。残殻(ざんかく)一機で守れる集落じゃない。それは、お前の数字が一番よく示してる。テオが何を残したのか、セルヴィスが何を狙ってるのか――それを知らなきゃ、守りようがない」

 ロイドは黙ってカイを見ていた。

「お前はここで200人を守れ。俺には、それができない。帳簿もつけられないし、配給の計算もできない。誰がどれだけ食って、水があと何日もつか、そんなことは何も分からない。だがお前にはできる。お前にしかできない」

 言いながら自分の声がどこか上滑りしているのが分かった。本当はただ父の足跡を追いたいだけなのかもしれない。その身勝手を立派な理由で塗り固めているだけなのかもしれない。

 それでも口は止まらなかった。膝の上の拳に知らず力がこもる。

 ロイドもそれきり黙った。数字を並べ立てたあとに続く言葉が出てこないようだった。帳簿に伸ばしかけた手が途中で止まる。何か言おうとして、結局机の木目に視線を落とした。

 倉庫の隅で干し肉の樽が夜の冷気に軋んだ。遠くで灰域(アッシュランド)鴉が一声鳴いた。その声が消えてもなお二人とも黙っていた。


 その時、倉庫の入口に影が差した。

 ゲオルグだった。

 いつからそこにいたのか分からない。白髪を短く刈り上げた大男が入口の柱に肩をもたせかけている。懐中時計が胸の前で揺れていた。火傷の引き攣れた右頬が廊下から漏れる薄明かりに照らされている。


「ロイド。お前の言うことは正しい」


 ゲオルグの声は低く穏やかだった。

「だが、正しいだけでは人は動かん」


 ロイドは父を見上げた。その顔に子供のような戸惑いが一瞬よぎった。普段は数字で武装している男が、父の前ではただの息子の顔になる。

「親父は……止めないのか」

「止められんよ」

 ゲオルグは目を細めた。それ以上は何も言わなかった。懐中時計の鎖が胸の前でわずかに鳴った。


 ロイドの目が揺れた。父の言葉に何か言い返そうとしてできなかったのだろう。唇が一度開いてまた閉じた。

 ロイドは帳簿を脇に抱え、立ち上がった。木箱の椅子が後ろに鈍く擦れる。カイの横を通り過ぎる。すれ違いざま、ロイドの肩がカイの肩にぶつかった。詫びもよけもしなかった。帳簿を抱えた腕に力がこもっているのが触れた肩から伝わった。

 入口の手前でロイドの足取りが一瞬だけ緩んだ。だが立ち止まりはせず、戸口に手をかけたまま背を向けて言った。


「……帰ったら、水道の修理を手伝え。東区画の配管が腐ってる。お前の溶接がないと直せない」


 それだけ言い残してロイドは倉庫を出て行った。足音が薄暗い廊下の奥へ遠ざかっていく。


 倉庫にはカイとゲオルグが残った。

 ゲオルグはゆっくりと倉庫の中に入ってくると、ロイドの座っていた木箱に腰を下ろした。古い木箱が大男の体重で大きく軋む。懐中時計を手の中で転がし、蓋に刻まれた文字を親指が何度もなぞる。ダイアナと読めた。ゲオルグが大崩落(ダウンフォール)で失った最初の妻の名だ。


「あいつは不器用だ。親父に似たのかもしれんな」


 ゲオルグは小さく笑った。煙草も吸わないのに口元の皺が深く刻まれている。だがその笑みはすぐに薄暗がりに溶けた。

「ロイドは、テオがいなくなった後のこの集落を見てる。日常が崩れかけたのを、間近で見てる。だから――もう一度あれを見たくないんだろうな。お前のためってより、あいつ自身のために止めてるのさ」

 ゲオルグの声は責めるでも諭すでもなかった。ただ事実を置くような声だった。


 カイは何も言わなかった。ロイドの正論を嫌な奴だとは思わなかった。むしろその不器用さが今になって胸に残る。数字でしか物を言えない男が、数字でなく言葉で何かを伝えようとして結局できなかった。その様子を間近で見てしまった。

 ただロイドが出て行った入口を見つめていた。閉じきらない戸の隙間から廊下の冷気が忍び込んでくる。

 水道の修理を手伝え。あの男が最後に残したのはそれだけだった。東区画の配管はカイの溶接がなければ直らない。

 カイはゆっくりと木箱から立ち上がった。出発の準備がまだ残っている。


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