ガルドの葛藤
ガルド・ヴェッセンは酒瓶を棚から下ろした。
遺灰酒。芋から蒸留したラストヘイムの地酒だ。透明な液体が瓶の中で揺れている。ガルドは作業台の端に腰かけ、瓶の口に唇をつけた。喉を焼く熱さが胃に落ちて広がる。鼻腔の奥で芋の醸した甘みと焦げた穀物の苦みが混ざり合う。管区の蒸留酒とは比べものにならない荒い味だ。
出発前夜。作業場には油と金属粉の匂いが染みついている。壁に並んだ旧世界の工具と自作の治具。天井から吊り下げた裸電球が薄暗い光を落としている。赤葉の煙が光の中を細く昇っていた。棚の隅で何年も前に直しかけてそのままの古い計器が埃をかぶっている。
テオの工具箱をガルドは棚の奥から引き出した。
他の工具に紛れて奥のほうにずっと置いてあった箱だ。ふだんは目に入れないようにしている。引き出すと底に溜まっていた埃が舞い上がり、裸電球の光の中で漂った。
鉄板を溶接して作った箱だ。蓋の裏に「T.S.」と刻んである。テオ・セヴァル。ガルドの手で刻んだ文字ではない。テオ自身がナイフの先で引っ掻いた不器用な字だ。手先は器用なくせに字だけは下手な男だった。
蓋の蝶番が錆びついて重い音を立てた。久しく開けていない証拠だ。蓋を開けるとテオが使っていた工具が並んでいる。やすり、ペンチ、マルチツール。どれも使い込まれ、柄の部分が手の形に馴染んでいる。テオの手は大きかった。カイの手はテオより細く、指が長い。技匠向きの手だとガルドは何度もカイに言った。
テオのやすりを持ち上げると柄の木が掌に吸いついた。長く握られた道具特有の滑らかさ。テオがどれだけの力で握り、どの角度で金属に当てていたか。ガルドの指はまだ覚えている。
工具の下に布に包まれた小さな部品がある。
ガルドはそれを取り出した。銀色の金属。精密に加工された親指の先ほどの大きさのリレー素子。生体合成の表面処理が施された鋳脈のハードウェアだ。
これを設計したのはガルドだった。
これをテオの頸椎に埋め込んだのもガルドだった。
グランヴェルトの研究施設にいた頃の話だ。あの頃のガルドは自分の作るものが人を強くすると信じていた。設備の整った工房。潤沢な資材。何でも作れる気がしていた。今は廃材を溶接して機体を継ぎ接ぎする日々だ。手元にあるのは錆びた工具とこの古い箱だけになった。
手の中でリレー素子が光を返す。裸電球の下で精密な加工面が鈍く輝いている。人の神経と鉄殻を繋ぐために削りに削った部品。
これがテオを削った。
最初に消えたのは右耳の聴覚だった。次に右手の指先の感覚。それでもテオは「まだ動ける」と笑った。鋳脈を施せば操手としての反応速度が桁違いに上がる。テオはそれを望んだ。代償のことは二人とも分かっていた。分かった上でガルドは素子を埋めた。テオが望んだからという言い訳を自分にも許した。
味覚が鈍り始めた頃、テオは酒を飲みながら「最近、この酒が水みたいだ」と言った。ガルドは笑えなかった。自分が作ったものが親友から酒の味まで奪っていた。
酒を一口飲んだ。
辛い。喉に引っかかるような荒さがある。舌が痺れ、しばらくして苦みが戻ってくる。安酒だが味は味だ。自分はまだこの味が分かる。テオが失ったものを自分はまだ持っている。
* * *
扉が軋んだ。
クレアだった。
丸眼鏡の奥の暗い灰色の目。左手の曲がった薬指と小指がベージュのコートのポケットに突っ込まれている。外から入ってきたクレアからは消毒液と夜風の匂いがした。
「まだ起きてるの」
「眠れる夜じゃない」
クレアは作業台の反対側に腰を下ろした。木箱がクレアの体重で小さく軋む。ガルドは酒瓶を差し出した。クレアは首を横に振った。昔は飲んだ。テオが生きていた頃は三人でこの作業場で安酒を回し飲みしたこともある。だがあの頃の話はもう二人とも口にしない。
しばらく二人とも黙っていた。クレアは何か言うべきことを口の中で転がしているようだった。
「あの子に全部話したのか」
クレアの声は医者の時の声だった。平坦で用件だけ。だがこの平坦さが何を抑え込んでいるかガルドには分かる。長い付き合いだ。
「まだだ」
「鋳脈のことも」
「まだだ」
「テオに鋳脈を施したのが、あんた自身だということも」
ガルドは答えなかった。リレー素子を布に戻して工具箱に置いた。金属が金属に触れる硬い音がした。
「いつ話す」
「分からん」
ガルドは赤葉に火をつけ直した。辛い煙が目に沁みる。指先が微かに震えていることに気づいて煙草を咥え直した。
「だが、あの子が知る時は来る。俺から話さなくても、いずれ誰かが教える。灰域を歩けば、テオを知ってる人間に会う。テオの鋳脈を知ってる人間にも会う。そうなれば」
「あの子は聞くでしょうね。『誰がやったのか』と」
クレアの言葉がガルドの胸に刺さった。
沈黙が落ちた。
作業場の壁に掛かった工具が微かに揺れている。風の振動が廃工場の鉄骨を通じて伝わっているのだ。灰域の夜は静かだが無音ではない。錆びた金属が軋む音、灰域鴉の低い鳴き声、遠くで灰原草が風に擦れる音。
クレアの丸眼鏡が裸電球の光を反射した。この女も眠れていないのだろう。鋳脈を安全にするはずだった研究がテオを壊した。それを背負っているのはガルドだけではない。
「カイはテオの子だ」
クレアが立ち上がった。コートの埃を払ってガルドを見下ろす。
「止められないよ。あの目は、テオと同じだ。何かを守ろうとする時の目。止めたら、この子は壊れる。テオがそうだったように」
ガルドは口を開きかけた。あの時テオに「やめろ」と言えなかった。言う勇気がなかった。
その同じ目の前に今また立っている。
言葉は出てこなかった。
クレアはそれだけ言って作業場を出た。コートの裾が扉の隙間に一瞬引っかかり、それから消えた。
扉が閉まる音が暗い作業場に低く響いた。残されたのは煙草の煙と油の匂いとガルド一人だ。いつもの夜と何も変わらない。だが明日からはこの作業場にカイの足音もなくなる。あの装甲を叩く規則正しい点検の音も。それがいつ戻るのか、戻らないのかは誰にも分からなかった。
ガルドは一人になった。
酒瓶を握りしめて天井を見上げた。裸電球の光が揺れている。その揺れの中にテオの顔が浮かぶ。黒髪を短く刈り込んだ笑い方の上手い男。右耳を失い、右手の感覚を失い、それでも笑おうとした男。最後にガルドに言った言葉。
「息子を頼む」
その一言が今も耳の奥に残っている。
「テオ」
ガルドは声に出した。作業場の壁に向かって誰にも聞こえない声で。
「お前の息子を連れて、お前の足跡を辿ることになった。笑ってくれるか、怒るか」
返事はない。当然だ。テオは7年前に消えた。生きているのか死んでいるのかすら分からない。
それでもガルドはしばらく壁を見つめていた。返事を待つように。馬鹿げていると自分でも思う。だがこういう夜くらいは馬鹿げたことをしてもいいだろう。
ガルドはリレー素子を布で包み直して工具箱の奥にしまった。蓋を閉じる。硬い金属の音が作業場に落ちた。
この箱は持っていく。
いつか使う日が来るかもしれない。
来てほしくはないが。
技匠の手が箱の蓋を撫でた。左手の中指と薬指の古い火傷の痕に鉄板の冷たさが鈍く触れる。この手でテオの息子を守れるだろうか。
ガルドは酒瓶を傾け、残りを喉に流し込んだ。荒い熱が落ちていく。テオはもうこの熱さえ分からない。
裸電球の光が空になった瓶の底で揺れていた。




