カイの決意
眠れない夜は天井の染みを数える。
旧世界のオフィスだったらしい部屋に暮らしてもう7年。父が消えてからずっとだ。剥がれた塗装も隅の錆も、目をつぶってどこにあるか言える。今夜はそれすら邪魔で、毛布を剥いで起き上がる。
窓の外は灰色の闇だ。灰域鴉が一羽、鉄殻の残骸の上で眠っている。
窓辺に立つと夜風が隙間から忍び込んでくる。冷えた空気が寝ぼけた頭を少し醒ましてくれた。遠くには修理中の残殻の輪郭が闇の中に黒く沈んでいる。ガルドと二人で左脚の関節をようやく組み直したばかりだが、あれでどこまで保つのか。
ラストヘイムを出る。
昨日ゲオルグの部屋で決めたわけじゃない。コルヴァスがこの町を見下ろした日にはもう決まっていた気がする。あの銀灰色の髪の男は「セルヴィスに報告する」と言って笑った。次はここを焼きに来る。俺がいるかぎり。
父がどこへ消えたのか。冴覚ってのが何なのか。知りたい気持ちはある。でもいちばんは――たぶんこの町を巻き込みたくないだけだ。それくらいしか整備士の自分にできることが思いつかない。
窓の外が微かに白み始めた頃、扉を叩く音がした。
* * *
タリアだった。
オーバーオール姿で肩には布の鞄を提げている。寝起きではなく徹夜だったのだろう。目の下にうっすらと隈があるが瞳の奥は明るい。
「起きてると思った」
タリアは断りもなく部屋に入ると、窓際の木箱に腰を下ろした。カイの住居に来るのは日常のことで、子供の頃からそうだった。
だが今日は空気が違う。タリアはカイの顔をまっすぐ見た。
「出て行くんでしょ」
カイは頷いた。
タリアは何も言わずに鞄から何かを取り出した。
手のひらに収まるサイズの金属の箱。角が丸く磨かれ、背面にはアンテナが折り畳まれている。自作のポータブル通信機だった。カイは何度かタリアの通信小屋でこの試作品を見たことがある。
「周波数帯を広げた。灰域の標準帯域はカバーしてる。暗号化も入れた。初歩的なやつだけど、平文よりはマシ」
タリアの指先には半田ごての火傷が新しく光っていた。一つじゃない。
「ったく、こんな急ぎの仕事させて。配線が一回ショートして、危うく全部やり直しだった」
文句を言いながらタリアはカイに通信機を押しつけた。カイが受け取るとずしりと重い。部品を一つずつ選び、手で組み上げた重さだ。表面にまだ半田の熱が残っているような気がした。気のせいかもしれないが、ついさっきまでタリアの手の中にあったことだけは確かだった。
「何かあったら呼んで。聞こえるかどうかは保証しないけど」
「ああ」
カイは通信機を上着の内ポケットに収めた。胸の上で四角い金属の角が、息をするたびに肋骨に当たった。
タリアは頷いた。そばかすの浮いた鼻の頭に鉄粉がついているのはいつもと同じだ。だが指先だけが僅かに震えていた。
タリアはすぐに立ち上がり、何でもないことのように木箱を片付け始めた。カイは止めなかった。片付けが終わるとタリアは「じゃ」とだけ言い、来た時と同じように断りもなく出て行った。扉が閉まる音がいつもより少し大きかった。
* * *
朝食はいつもの灰域パンと豆のスープだった。マーサが「しっかり食べな」といつもより多めにパンをよそってくれた。何も言わずにただ差し出す。その手が少しだけ長く皿の縁に添えられていた。
朝食の後、集落の外縁に出るとリックがいた。
残殻の脚部に腰かけて双眼鏡で灰色の地平線を眺めている。カイの足音に気づいて振り返った。半年で背が伸びたのか、上着の袖が手首まで届いていない。まだ声変わりの途中の骨ばった顔。
「カイ兄、どこか行くのか」
リックの目は鋭い。鉄殻拾いで鍛えた観察眼だ。
「しばらく留守にする」
カイは正直に答えた。嘘をつく理由がない。
リックの目が揺れ、双眼鏡を握る手に力が入った。
「俺も連れてってくれ」
双眼鏡を握る手の甲に筋が浮いていた。声がわずかに上ずっている。
カイは首を横に振った。
「お前はタリアと町を頼む」
「なんでだよ」
リックが立ち上がり、残殻の脚部から飛び降りてカイの前に立つ。
「俺だって役に立つ。鉄殻の部品なら誰より見つけられる。足手まといには――」
「リック」
カイは遮った。
「お前の目は確かだ。だからこそ、この町に要る。お前が見つけてくる部品で、残殻は動いてるんだ」
リックは唇を噛んだ。何か言い返したそうに口を開きかけては、また閉じる。それを何度か繰り返した。泣きそうな顔をしながらも涙はこぼさなかった。意地っ張りなところは昔から変わらない。
カイはリックの頭に手を置いた。黒髪が指の間に広がる。砂と鉄粉の匂いは灰域の子供の匂いだ。昔、まだリックが本当に小さかった頃に廃材置き場で迷子になって泣いていたのを見つけたことがある。あの時もこうして頭に手を置いた。あれからずいぶん背が伸びた。
「……帰ってくるよな、カイ兄」
「ああ」
即答した。本当に帰れるかどうかなど分からない。それでもこの子の前で迷う顔は見せられなかった。
リックは頷き、双眼鏡を胸に抱えたまま灰色の地平線に目を向けた。その横顔をカイは少しのあいだ見ていた。
* * *
夜が来た。
タリアとカイは廃墟の屋上に座っていた。
ラストヘイムを一望できる高台だ。崩れかけたコンクリートの縁に腰を下ろすと、灰域の空が頭上に広がっている。灰色の雲が大気を覆って星はほとんど見えないが、雲の切れ間から数個の光が零れていた。
灰域の星空は、青空と同じくらい珍しい。
この屋上には子供の頃から二人でよく登った。鉄殻拾いに疲れた帰りにここで足を投げ出し、星が見えるのを待ったものだ。灰域で星が見える夜は年に数えるほどしかないから、見えた夜は得した気分になった。
タリアは膝を抱えて黙って空を見上げていた。隣のカイも黙っている。風が灰原草の穂を揺らす音だけが二人の間を流れていた。コンクリートの縁は昼の熱をまだ少し残しており、尻の下がほんのりと温かい。
本当は誰かに止めてほしかったのかもしれない。そんな考えがふいに頭をよぎる。タリアがこんなに物分かりよく送り出そうとしていることに、少しだけ理不尽な苛立ちを覚えた。出て行くと決めたのは自分なのに勝手なものだ。
「ねえ、カイ」
タリアが口を開いた。声は静かだった。
「あたし、待ってるとか……」
言いかけてタリアは一度言葉を切った。膝を抱える腕に力がこもる。
「待ってるとか、言わないから。待ってる間に、あたしはあたしのやることやるから。通信機を直して、周波数を広げて、他の集落と繋いで。あんたが帰ってきた時に、ちゃんとここが生きてるようにする。だから――」
タリアの目が星の光を映して揺れた。
「だから、あんたはあんたのやることやってきなさい」
「そうしろ」
カイは短く答えた。それしか言えなかった。本当はもっと言うべきことがあった気がする。礼とかすまないとか。だが口を開けば決意が鈍りそうだったから、それだけにした。
灰域の風が吹き、砂と鉄錆の粒が頬をかすめる。すぐ隣でタリアの肩が呼吸に合わせて静かに上下しているのが分かった。
明日からこの屋上に座るのは一人になる。
そう思ったとき、隣でタリアが膝を抱える腕に少しだけ力を込めた。何を考えているのかは聞かなかった。




