目をつけられた集落
ゲオルグ・ハートの住居にはいつも薄い油の匂いが漂っている。
旧工場の管理室だった一角を改装した部屋は壁のコンクリートが剥き出しで、窓には割れたガラスの代わりに板が打ちつけてある。ゲオルグは部屋の中央に据えた木箱の椅子に腰を下ろし、懐中時計を膝の上に置いていた。亡き妻の形見。短く刈り上げた白髪の下で火傷の引き攣れた右頬が薄暗がりに沈んでいる。
「集まったか」
部屋に入ったのはカイ、ガルド、ロイドの3人だった。
カイは壁際に立った。背中に当たるコンクリートがひんやりと冷たい。ガルドは棚に背を預けたまま、赤葉の煙草に火をつけない。ロイドは帳簿を脇に抱えたまま父の正面に腰を下ろした。木箱の椅子がロイドの体重で軋んだ。
この部屋に呼ばれた理由は口にされる前から分かっていた。だから誰も座る前に余計なことを言わなかった。
「タリアの傍受結果を聞いた」
ゲオルグが口を開いた。
タリアが通信小屋で拾った内容。セルヴィスの暗号通信にラストヘイムの名前が出始めている。コルヴァスの偵察報告が本部に上がったのだろう。灰域の小さな集落の名前が統治機構体の通信に載った。
その意味を誰も口にしなかった。
「数字を出す」
ロイドが帳簿を開いた。声は平坦だ。
「現状のラストヘイムの防衛力。残殻1機、修理中。武装は旧式の小火器が7挺。弾薬はライフルが120発、散弾が50発弱。住民200人のうち、戦闘経験があるのはガルドを含めて3人。汎殻が2機来れば、半日で終わる」
ロイドは帳簿のページを一枚めくると、指先で数字をなぞりながら淡々と読み上げていく。この数字をロイドは寝る間も惜しんで何度も数え直したのだろう。目の下の隈が薄闇の中で一層濃く見えた。
「灰域浄化計画の標的リストに追加された可能性がある。コルヴァスが位置を把握した以上、次は偵察ではなく掃討になる」
沈黙が落ちた。赤葉の煙草を咥えたガルドがようやく火をつけた。マッチの硫黄の匂いが一瞬鼻を刺し、辛い煙が天井へと昇っていく。
ゲオルグは何も言わず、膝の上の懐中時計を親指でなぞっていた。蓋の傷を何度も、何度も。誰かが口を開くのを待っているのか、それともすでに腹を決めているのか。カイにはまだ読めなかった。
「選択肢は3つだ」
ガルドの声は低い。
「移転するか。防備を固めるか。同盟を探すか」
「移転は現実的じゃない」
ロイドが即座に否定した。
「200人分の食料と水を運ぶ手段がない。仮に動けたとして、行き先がない。管区の連中にとっては、ここも、あそこも等しく無主地だ」
「防備の強化は」
「残殻1機と旧式小火器で何ができる。壁を厚くしたところで、鉄殻の砲弾の前では紙と同じだ」
ロイドは帳簿のページを指で押さえたまま淡々と答えていく。問いと答えがまるで打ち合わせたように噛み合っていた。だがそれは打ち合わせたからではない。二人とももう何度もこの計算を繰り返してきたからだ。
「同盟は」
ロイドは少しだけ言葉を探した。
「カラス商隊を通じて周辺の集落に声をかけることはできる。だが、どこもうちと同じだ。残殻が1機か2機。寄せ集めたところで、コルヴァスの銘殻には届かない」
カイは壁に背をつけたまま拳を握っていた。指の間に鉄粉が食い込む感触がまだ残っている。三つの道が口にされるそばから潰れていく。壁に押しつけた背中がじわじわと冷えていくのを感じた。
何か言うべきなのかもしれない。だがカイの口からは何も出てこなかった。整備士の自分に集落を救う策などあるはずもない。残殻の関節を一つ直すのが精一杯の人間なのだ。
ゲオルグが長い沈黙を破った。
「ここを捨てる気はない」
その声は静かだった。
「30年だ。30年かけて作った場所だ。マーサがここで子供に字を教えて、クレアがここで人を治して、ロイド、お前がここで帳簿をつけて、この町は生きてきた。逃げても同じことが繰り返される。どこに行っても、管区の連中はやってくる。なら、ここにいる」
ゲオルグの目がカイを捉えた。黒に近い濃褐色の目。瞼の下で老いた眼光が鋭くなる。
「だが、お前が出て行くのを止める気もない」
カイの体が強張った。
「行くなら、行って来い。ただし――」
ゲオルグの声が変わった。
「帰って来い。それだけだ」
たった一言だった。だがその一言の重さでカイは喉の奥が詰まった。火傷の引き攣れた頬の奥で、ゲオルグの目だけがまっすぐカイを見ている。
カイは頷いた。声は出なかったが、目は逸らさなかった。
ゲオルグは小さく頷き返すと、膝の懐中時計をポケットに戻した。それで話は終わりだというように。木箱の椅子から立ち上がる時に老人の膝が低く鳴ったが、誰もそれを聞かなかったふりをした。
ガルドは何も言わず、煙草の煙の向こうでカイとゲオルグのやり取りをただ見ていた。その横顔からは何を考えているのか読めない。だが止めようとはしなかった。それがガルドなりの答えなのかもしれない。
話はそれで終わった。カイは壁から背を離し、剥き出しのコンクリートの部屋を後にした。板を打ちつけた窓の隙間から夕暮れの光が一筋、床に差し込んでいた。
* * *
広場に出ると夕暮れの空が鉄錆色に染まっていた。
灰域の夕焼けは灰色と赤が混ざり合って濁った色になる。その下をカイは歩いていた。胸の奥にゲオルグの一言がまだ引っかかっており、足の運びがいつもより重い。広場では住民が井戸の周りに集まって水を汲んでいる。子供が一人、空のバケツを引きずって走っていった。いつもと変わらない夕方の光景だ。カイはそれを背に歩いていく。
「カイ」
呼び止められて振り返ると、ロイドが広場の壁に背をつけて立っていた。腕を組み、帳簿を脇に挟んだままカイを見ている。目の下の隈が夕陽に照らされて影を作っていた。
「お前が出て行くのは反対だ」
ロイドの声は事務的だったが、いつもより少し早口だった。
「だが止められないのも分かってる。親父が止めないなら、俺が何を言っても同じだ」
カイは黙っていた。
「なら一つだけ約束しろ」
ロイドが壁から背を離し、カイの前に立った。間近で見るとロイドの目の下には父親と同じ隈ができている。カイより年上のはずの男が、今はずっと老けて見えた。
「この集落を、これ以上の危険に巻き込むな。お前が灰域で目立てば、ラストヘイム出身だと知られる。結局ここが狙われる。それだけは避けろ」
カイはまっすぐロイドの目を見て答えた。
「分かってる」
「分かってるなら、言うことはない」
ロイドが背を向けた。数歩進んでふいに足を止める。
「……テオさんの時と同じことになるのが怖いんだ」
ロイドの背中がほんの一瞬だけ強張った。それきり何も言わず、広場の向こうに消えていった。
カイは一人になった。
テオさんの時と同じ。ロイドの言葉が耳の奥に残っている。父が出て行った日、ロイドはもう物心がついていた。あの時のことをロイドは覚えているのだ。父が二度と帰らなかったことも。
夕暮れの風が砂と鉄粉を運んでくる。灰域パンの焼ける匂いと大鍋の湯気が、集落の中心から漂ってきた。いつもの夕食。いつもの匂い。
この匂いをしばらく嗅げなくなる。
帰って来いとゲオルグは言った。あの言葉に頷いてしまったが、父も同じことを誰かに言われたのだろうか。言われて、それでも帰らなかったのだろうか。そう考えると足元が崩れそうになる。
カイは拳を開き、鉄粉がこびりついた掌をしばらく見つめていた。




