行くなら、帰って来い
出発の朝は、灰色だった。
空はいつもと同じ鈍い曇天で、風は弱く、砂も鉄粉もほとんど飛んでいない。穏やかな朝だった。灰域では珍しいほどに。空気は冷たく乾いて、吸い込むと肺の奥に鉄の味が微かに残る。いつもの味だ。ここで17年間、毎朝吸ってきた空気の味。
カイが広場に出ると、人が集まっていた。
大袈裟な送別会ではない。ただ、いつもの朝の延長として、自然に人が寄ってきた。共同水場で顔を洗い、灰域パンを齧り、大鍋の残りの朝食を啜りながら、広場の端に集まっている。200人の集落の、半分近くがそこにいた。
誰も「行くな」とは言わない。誰も「頑張れ」とも言わない。灰域の人間は、出て行く者を引き止めない。引き止めても仕方がないことを、30年の歳月が教えているからだ。テオが出て行った日も、きっとこうだったのだろう。カイはそう思った。7年前の朝のことを、カイは覚えていない。父が出て行ったことだけが、記憶に残っている。
リックが駆けてきた。
黒髪を無造作に伸ばした15歳の少年が、カイの前で足を止める。息を切らしている。頬が赤い。走ってきたのだ。集落の端から、全力で。手に何かを握りしめていた。
「カイ兄」
リックの声は震えていた。何か言いたいことがあるのだ。だが言葉が出ない。唇が動き、音にならず、もう一度動いて、また止まる。喉仏が上下している。15歳の少年が、必死に言葉を探している。
代わりに、リックは手の中のものを差し出した。
双眼鏡だった。
リックの宝物。廃墟の奥で見つけた旧世界の光学機器。レンズに小さな傷があるが、まだ十分に使える。リックはいつもこれを首から下げて、灰色の地平線を眺めていた。鉄殻の残骸を探す時も、灰域鴉の群れを追う時も、いつもこの双眼鏡が胸にあった。
「これ、持ってけ」
リックの声が裏返った。
「遠くが見えるから。危ないやつが来たら、早めに分かるから」
「お前の宝物だろ」
「いい。カイ兄が帰ってきたら返してもらう」
リックの目が赤くなっていた。泣くまいとしている。15歳の意地が、頬の筋肉を引き攣らせている。鼻の頭が赤い。唇を噛んでいる。
「だから、絶対帰って来い」
カイは双眼鏡を受け取った。ずしりとした重さ。金属と硝子でできた、旧世界の精密機器。リックが毎日磨いていたレンズが、灰色の空を映している。革の紐が手に触れた。リックの体温がまだ残っている。
「預かる」
カイはそれだけ言った。リックは泣きそうな顔のまま、強く頷いた。何度も頷いた。頷くたびに、堪えていた涙が睫毛の先で揺れた。だが落ちなかった。
* * *
広場の中央で、マーサが穏やかに微笑んでいた。杖をついた小柄な老女が、カイに向かって軽く手を上げる。「元気でね」と口が動いた。声は聞こえなかったが、読み取れた。白髪を丸く結い上げた頭が、朝の光の中で銀色に見えた。首に巻いた手編みのマフラー。娘が編んでくれたもの。マーサもまた、失った人の記憶を身につけて生きている。
クレアは広場の隅に立っていた。腕を組み、丸眼鏡の奥でカイを見ている。黙って頷いた。それだけだった。クレアの表情は変わらない。だがその目の奥に、何かが光った。昨夜渡した薬の袋のことを思い出しているのかもしれない。「使わないのが一番」と言った声が、まだ耳に残っている。
ロイドは広場から離れた場所にいた。倉庫の壁に背をつけ、腕を組んでいる。脇に帳簿を挟んだまま。目は合わせない。カイがロイドの方を見た時、ロイドは視線を逸らした。だが、口が動いた。
「水道の修理、帰ったら手伝えよ」
小さな声だった。広場の雑踏にかき消されそうなほど小さな声。だがカイの耳には届いた。ロイドの声は平坦だった。いつもの事務的な口調。だがその平坦さの奥に、昨夜の倉庫で見た震えが隠れている。
* * *
最後にゲオルグが来た。
白髪を短く刈り上げた68歳の大男が、広場の人垣を割ってカイの前に立った。朝の光が、火傷の引き攣れた右頬を照らしている。左耳の欠損が、影を作っていた。懐中時計が胸の前で揺れている。いつも通りのゲオルグだった。広い肩、太い腕、重い足取り。30年間この集落に根を張ってきた人間の、重み。
ゲオルグはカイの肩に手を置いた。
大きな手だった。大崩落を生き延びた手。鋳造工として鉄を打ち、戦火の中で瓦礫を掘り、30年かけてこの集落を建てた手。太く、硬く、温かい。指の関節が節くれ立ち、掌に鋳造工の胼胝が残っている。この手が何人の人間を瓦礫から引き出し、何枚の鉄板を曲げ、何度子供の頭を撫でたか。
カイはその手の重みを、肩で受け止めた。
「行くなら、帰って来い」
ゲオルグの声は低かった。
「それだけだ」
その一言に、全てが詰まっていた。
気をつけろ、とは言わない。無茶をするな、とも言わない。ゲオルグはカイが無茶をすることを知っている。テオの息子が安全な道を選ばないことを知っている。だから、言わない。代わりに、帰って来い。生きて帰って来い。それだけ。7年前にテオに言えなかった言葉を、今度はテオの息子に言っている。
カイは頷いた。
言葉は出なかった。声にすれば、何かが崩れそうだった。だが目は逸らさなかった。ゲオルグの黒い目を、カイの灰色の目が真っ直ぐ見つめた。
ゲオルグが手を離した。一歩下がった。懐中時計が胸の前で揺れた。その手が、僅かに震えていた。
カイは振り返った。
広場の人々。朝の光の中で、200人の集落が、カイを見ていた。
子供たちが手を振っている。大人たちが腕を組んで立っている。鉄殻の残骸の上で、灰域鴉が一羽、鳴いた。甲高い声が、灰色の空に吸い込まれていった。
* * *
残殻のコックピットに乗り込んだ。
操縦桿を握る。冷たい金属の感触が、掌に馴染む。右手の親指が、操縦桿の上に乗った。父から受け継いだ癖。教わったわけではない。体が勝手にそうする。
エンジンが唸りを上げた。機関温度計が青から緑に変わる。燃料残量68%。弾薬、規定量。関節負荷、全て緑域。左腕の動力伝達系だけが、黄色の警告灯を点滅させている。ガルドの言葉を思い出す。「負荷をかければ肘関節から先が落ちる」。だが今は走れる。それで十分だ。
隣にガルドの旧型作業車が並んだ。六輪の装甲トラックのエンジンが、低い振動を地面に伝えている。ガルドが窓から顔を出し、赤葉を咥えたまま親指を立てた。
カイは一度だけ振り返った。
残殻のセンサーが、集落の広場を映し出す。
リックが手を振っている。双眼鏡のない首元が、妙に軽そうに見えた。
タリアが腰に手を当てて立っている。いつもの姿勢だ。泣いてはいない。風が茶色がかった黒髪を煽っている。そばかすの浮いた顔が、センサー越しでも見えた。
ゲオルグは微動だにしない。大きな体が、広場の中央に根を張ったように立っている。懐中時計を握った手だけが、僅かに震えていた。
カイは前を向いた。
操縦桿を押し込む。残殻が一歩を踏み出した。砂塵が舞い上がる。ガルドの作業車が、その後ろに続いた。
集落の外壁を越える。灰原草の白い穂が、風に揺れている。灰色の空の下、鉄錆色の大地が東に広がっていた。
振り返りたい衝動を、カイは抑えた。
振り返れば、戻りたくなる。
だから、前だけを見た。




