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鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio SASAME
鉄錆の邂逅

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マーサの贈り物

出発前日。マーサが、テオの遺した地図をカイに渡す。

マーサ・ウィンターの住居は、集落で最も古い建物の一角にあった。

 旧世界のアパートメントの1階。壁には罅割れたタイルが残り、天井の隅にかつて照明が据えつけられていた穴がある。窓際の棚に、旧世界の教科書の写しが積まれていた。黄ばんだ紙の束、手書きの文字、擦り切れた背表紙。マーサが30年かけて集め、写し、綴じたものだ。

 カイが入ると、マーサは窓際の椅子に座っていた。白髪を頭の上で丸く結い上げ、手には茶碗を持っている。灰域(アッシュランド)茶。灰原草の根を乾燥させて煮出した、薄い琥珀色の飲み物だ。味はほとんどないが、温かい。


「まあ、お茶でも飲みな」


 マーサの口癖だった。カイは木箱の椅子に腰を下ろし、差し出された茶碗を受け取った。土の匂いがする湯気が、顔にかかる。


「明日出るんだってね」

「ああ」

「ガルドも一緒に行くらしいじゃないか。あの男が行くなら、少しは安心だ」

 マーサは微笑んだ。皺の深い顔に、穏やかな光が宿る。だがその奥に、72年分の重みがある。大崩落(ダウンフォール)を生き延び、夫を失い、娘を失い、それでもこの場所で子供たちに字を教え続けた女の重み。


「あんたを呼んだのは、渡すものがあるからだ」


 マーサは椅子から立ち上がり、壁に向かった。壁には旧世界の地図の断片が何枚か貼られている。色褪せた紙に印刷された道路と都市の名前。読める文字もあれば、退色して消えかけている文字もある。

 マーサはその中から一枚を、丁寧に剥がした。壁に残った糊の痕が、白い四角を残す。


「テオが残していったものだ」


 カイの手が止まった。茶碗の中の液体が、微かに揺れた。


「あの子がここを出る前に、『マーサ先生に預けておく』と言った。7年前だ。カイ、あんたが10歳の時」

 マーサがカイの手に地図を置いた。

 旧世界の道路地図だった。「中欧」と印刷された地域の、折り畳み式の地図。紙は薄く、端が破れかけている。しかし一部に、手書きの注記があった。


 テオの筆跡だった。

 カイにはそれが分かった。父が作業場で部品の型番を書き留める時の、少し右に傾いた癖のある字。ナイフの先で引っ掻いたような不器用な線。その字で、集落の位置が丸で囲まれ、水源の場所が三角で示され、危険地帯に斜線が引かれていた。

 「狼多い」「崩落注意」「旧軍施設 近づくな」「ここの水は飲める」

 テオが灰域(アッシュランド)を歩いた時の記録だ。どこで水を得て、どこで危険を避け、どの道を通ったか。父の足跡が、地図の上に残っている。


「テオはあんたが物心つく前から、いつかこの地図が必要になると思っていた」


 マーサの声は穏やかだったが、その奥に硬い芯がある。

「あの子は先のことを考える子だった。戦場から帰るたびに笑顔が減って、口数が少なくなって、それでも子供のあんたの前では笑おうとした。あの子がここを出る時、私には言ったよ。『マーサ先生、カイが大きくなったら渡してやってくれ。俺は、灰域(アッシュランド)のどこにいても帰る道を知りたかった。あいつにも、同じものをやりたい』って」


 カイは地図を両手で持っていた。

 インクは褪せている。紙の折り目は擦り切れている。だが線は確かだ。テオの手が、この紙の上を動いた。ペンを持ち、集落の位置を記し、水源を印し、危険を書き留めた。その手は右手の指先の感覚を失いかけていたはずだ。それでも書いた。息子のために。


「書き残さなければ、誰も覚えていない」


 マーサが言った。

「あんたが見たものを、いつか誰かに伝えるんだよ。テオがこの地図を残したように。書き残さなければ、灰域(アッシュランド)の記憶は砂に埋もれて消える」


 カイは地図を胸のポケットにしまった。紙の感触が、布越しに胸に伝わる。父がここにいた証拠。父が歩いた道。



 * * *



 マーサの住居を出ると、集落の広場にクレアがいた。

 ベージュのコートを羽織り、手には小さな布袋を持っている。カイの姿を見つけると、まっすぐ歩いてきた。丸眼鏡の奥の目は、いつもの厳しさよりも柔らかかった。


「旅の保険」


 クレアが袋を差し出した。カイが受け取って開けると、小瓶に入った消毒液、包帯の巻き、解熱剤の錠剤が数粒、そして縫合針と糸が入っていた。

「使わないのが一番だけど。灰域(アッシュランド)の怪我は感染が怖い。傷口はすぐ洗って消毒しなさい。水がなければ浄水結晶で作った水を使うこと。間違っても汚染水でやらないように」

 クレアの声は医師の声だった。患者に処置の説明をする、正確で感情を抑えた声。

「解熱剤は6錠。1回1錠、8時間以上空けること。それ以上飲んだら肝臓に負担がかかる。縫合針と糸は最後の手段。本当に血が止まらない時だけ使いなさい。自分で縫えないなら、ガルドにやらせなさい。あの男は不器用に見えるが、手先は正確だから」

「ありがとう」

「お礼はいい」


 クレアは一瞬だけ、眼鏡の奥で目を細めた。


「カイ。あんたは17歳だ。まだ体が出来上がっていない。冴覚(さいかく)を使いすぎるな。頭痛が来たら、戦闘中でも引きなさい。無理をすれば、戻れなくなる」

 その言葉の裏に、テオのカルテの重みがあることを、カイは感じていた。

冴覚(さいかく)は5分以内。それを守りなさい」


 クレアはそれだけ言って、診療所に戻っていった。

 背中が小さく見えた。163センチの痩せた体。左手の薬指と小指が不自然に曲がった手。セルヴィスから逃げてきた時に折れた骨が、今も真っ直ぐに治っていない。

 この人も、何かから逃げて、ここに辿り着いた。カイの父と同じように。ガルドと同じように。


 カイは薬の袋を、旅行用パックにしまった。

 胸のポケットにテオの地図。腰にタリアの通信機。パックにロイドの食料とクレアの薬。

 一人ではない。出て行くのは自分だが、持っていくものは自分のものだけではない。

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