出発の準備
残殻の関節から、錆苔を削り落とす。
鉄の粉が風に散った。ガルドの作業場には朝から金属を打つ音と、やすりの擦過音が響いている。出発の準備だった。
ガルドは残殻の脚部フレームに潜り込み、左膝の関節軸受けを検分していた。赤葉の煙草を口元に咥え、目を細める。指先で軸受けの回転を確かめ、爪で表面を引っ掻く。
「左膝は保つ。右膝が怪しい。砂を噛んでる」
「昨日削り直した」
「削りが甘い。もう0.03ミリ広げろ」
カイはやすりを手に取った。0.03ミリ。指先の感覚だけが頼りの世界だ。削りすぎれば遊びが大きくなりすぎて、関節がぐらつく。足りなければ砂が噛んで焼きつく。
残殻は走れる程度には回復していた。ガルドが急ピッチで修理を進めた結果だ。しかし限界は明確だった。
「いいか、よく聞け」
ガルドがフレームの下から這い出し、油まみれの手でカイの残殻を指差した。
「こいつは長距離の戦闘には耐えない。左腕の動力伝達系は応急修理だ。負荷をかければ肘関節から先が落ちる。右脚は膝下の装甲が1枚欠けたままだ。フレームが露出してる。砲弾が掠めただけで脚を持っていかれる」
ガルドの声は技匠の声だった。飄々とした普段の口調ではない。金属と油の匂いの中で、この男は嘘をつかない。
「壊れたら、その場で捨てろ。しがみつくな。鉄殻は道具だ。お前の命の方が重い」
カイは頷いた。残殻のコックピットに上がり、計器を確認する。燃料残量計、機関温度計、弾薬残量、関節負荷警告。全ての表示が緑。だが緑は「安全」を意味しない。「今は動く」を意味するだけだ。
燃料は68%。巡航速度で約60キロ。ストーンクロスまで300キロ。途中で最低3回は燃料を補給しなければならない。灰域に給油施設はない。廃棄された鉄殻の燃料タンクから抜き取るか、集落で交易するか。どちらにせよ、確実ではない。
* * *
作業場の外に出ると、タリアが通信機の最終調整をしていた。
通信小屋の前で、ポータブル通信機のアンテナを伸ばし、周波数を合わせている。横には昨夜カイに渡した通信機と同型の試験機が置かれている。
「どうだ」
「悪くない」
タリアの指が、ダイヤルを微調整する。半田ごての跡が光る指先。
「周波数帯を標準の3倍に広げた。灰域の民間帯域と、カラス商隊が使う交易帯域をカバーしてる。暗号化は初歩的なスクランブルだけど、セルヴィスのタクネットに引っかかることはない。向こうはもっと高い帯域を使ってるから」
「傍受される可能性は」
「ゼロじゃない。でも灰域の民間通信なんて、管区の連中は聞いてないよ。雑音だと思ってる」
タリアの口調は技術者のものだった。いつもの快活さの下に、確かな知識と経験がある。16歳で集落の通信インフラを改良した少女は、今や灰域でも指折りの通信技術者になりつつあった。
「完璧じゃないけど、ないよりマシ」
タリアはその言葉を2度目に使った。謙遜ではない。灰域では「完璧」は存在しない。「ないよりマシ」が最高の品質だ。
* * *
昼過ぎ、ロイドが倉庫から食料と水の旅行用パックを持ってきた。
黙って、作業場の入口に置いていった。言葉はなかった。カイが中身を確認する。干し肉、灰域パン、浄水結晶。3日分。布に包まれた各品目の量は、ロイドが正確に計算したものだろう。1日あたりの必要カロリーと水分量から逆算した、最低限の携行食。
「これ以上は出せない。集落の備蓄に余裕はない」
ロイドは倉庫の方から声だけを投げた。事務的な声。だがパックの底に、何かが入っていた。
カイは取り出した。布に包まれた小さな塊。開けると、薄く切って乾燥させたリンゴの切片が数枚入っていた。ストーンクロス・リンゴの干しリンゴ。カラス商隊が稀に持ち込む、灰域では贅沢品に分類される食品だ。甘みがある。灰域の食事にはほとんど存在しない、純粋な甘さ。
ロイドの個人的な持ち物だ。集落の備蓄には含まれていない。自分の分を削って入れたのだ。
カイは何も言わず、パックに戻した。
* * *
夕暮れが近づいていた。
ガルドが作業場からブーツを引っ掛けて出てきた。旧型の作業車の横に立ち、カイを見た。
作業車は鉄殻ではない。六輪の装甲トラック。旧世界の軍用車両の残骸をガルドが自分で修理したものだ。荷台には工具箱と予備部品が積まれている。燃料は残殻と同じ精製重油。
「一人で行かせるわけにはいかん」
ガルドの声は、いつもの飄々とした調子だった。
カイは驚いた。聞き返そうとした。
「技匠なしでどこまで走れると思ってる」
ガルドは赤葉に火をつけ、煙を吐いた。
「残殻が壊れたら誰が直す。お前の腕は悪くないが、フィールドでの修理経験がない。砂漠のど真ん中で関節が焼きついたら、やすり一本じゃ直せんぞ」
理屈を並べている。技匠としての合理的な判断。だがカイには分かった。ガルドの目は、理屈を言う目ではない。
「それに」
ガルドは酒瓶を棚に戻しながら、背を向けたまま言った。
「テオの息子を一人で送り出したら、あいつに顔向けができん」
その一言が、全てだった。
カイは何も言えなかった。代わりに、頷いた。ガルドはそれを見ていなかったが、頷いたことは分かっていたはずだ。
夕陽が作業場のシャッターを赤く染めている。
明日の朝、ここを出る。残殻とガルドの作業車で、東に向かう。ストーンクロス。灰域最大の独立集落。テオの足跡が、そこにある。
カイは残殻のコックピットに手をかけた。鉄の冷たさが、掌に伝わる。
この機体で、灰域を渡る。




