目をつけられた集落
コルヴァスが去った後のラストヘイム。集落の名前が統治機構体の通信に載った日、ゲオルグが下した判断。
ゲオルグ・ハートの住居には、いつも薄い油の匂いが漂っている。
旧工場の管理室だった一角を改装した部屋は、壁のコンクリートが剥き出しで、窓は割れたガラスの代わりに板が打ちつけてある。ゲオルグは部屋の中央に据えた木箱の椅子に腰を下ろし、懐中時計を膝の上に置いていた。亡き妻の形見。短く刈り上げた白髪の下で、火傷の引き攣れた右頬が薄暗がりに沈んでいる。
「集まったか」
部屋に入ったのは、カイ、ガルド、ロイドの3人だった。
ゲオルグの声は穏やかだったが、その穏やかさの下に、30年分の重さがある。カイは壁際に立った。ガルドは棚に背を預け、赤葉の煙草に火をつけない。ロイドは帳簿を脇に抱えたまま、父の正面に腰を下ろした。
「タリアの傍受結果を聞いた」
ゲオルグが口を開いた。
タリアが通信小屋で拾った内容。セルヴィスの暗号通信に、ラストヘイムの名前が出始めている。コルヴァスの偵察報告が本部に上がったのだろう。灰域の小さな集落の名前が、統治機構体の通信帯域に載った。それが何を意味するか、この部屋にいる全員が理解していた。
「数字を出す」
ロイドが帳簿を開いた。声は平坦だ。感情を挟まない。
「現状のラストヘイムの防衛力。残殻1機、修理中。武装は旧式の小火器が7挺。弾薬はライフルが120発、散弾が50発弱。住民200人のうち、戦闘経験があるのはガルドを含めて3人。汎殻が2機来れば、半日で終わる」
数字は嘘をつかない。ロイドの目の下の隈が、薄闇の中で一層濃く見えた。
「灰域浄化計画の標的リストに追加された可能性がある。コルヴァスが位置を把握した以上、次は偵察ではなく掃討になる」
沈黙が落ちた。赤葉の煙草を咥えたガルドが、ようやく火をつけた。辛い煙が天井に昇っていく。
「選択肢は3つだ」
ガルドの声は低い。
「移転するか。防備を固めるか。同盟を探すか」
「移転は現実的じゃない」
ロイドが即座に否定した。
「200人分の食料と水を運ぶ手段がない。仮に動けたとして、行き先がない。灰域のどこに行っても同じだ。管区の連中にとっては、ここも、あそこも等しく無主地だ」
「防備の強化は」
「残殻1機と旧式小火器で何ができる。壁を厚くしたところで、鉄殻の砲弾の前では紙と同じだ」
「同盟は」
「カラス商隊を通じて周辺の集落に声をかけることはできるが、どこもうちと同じだ。残殻が1機か2機。寄せ集めてもコルヴァスの銘殻には勝てない」
ロイドの言葉は正確で、冷たくて、正しかった。
カイは壁に背をつけたまま、拳を握っていた。指の間に鉄粉が食い込む感触が、まだ残っている。
ゲオルグが長い沈黙を破った。
「ここを捨てる気はない」
その声は静かだった。怒りでも、強がりでもない。
「30年だ。30年かけて作った場所だ。マーサがここで子供に字を教えて、クレアがここで人を治して、ロイド、お前がここで帳簿をつけて、この町は生きてきた。逃げても同じことが繰り返される。どこに行っても、管区の連中はやってくる。なら、ここにいる」
ゲオルグの目がカイを捉えた。黒に近い濃褐色の目。瞼の下で、老いた眼光が鋭くなる。
「だが、お前が出て行くのを止める気もない」
カイの体が強張った。
「行くなら、行って来い。ただし――」
ゲオルグの声が変わった。
「帰って来い。それだけだ」
その一言が、部屋の空気を変えた。
帰って来い。ゲオルグの右頬の火傷は、大崩落の砲撃で妻を失った日のものだ。左耳の上半分が欠けたのも同じ日。この体で30年、ここに立ち続けた人間が「帰って来い」と言う。それは祈りに似ている。祈りであると同時に、命令だった。
カイは頷いた。声は出なかった。だが目を逸らさなかった。
* * *
広場を出ると、夕暮れの空が鉄錆色に染まっていた。
灰域の夕焼けは、灰色と赤が混ざり合って濁った色になる。その下でカイは歩いていた。胸の奥で、ゲオルグの言葉がまだ反響している。
「カイ」
呼び止められた。振り返ると、ロイドが広場の壁に背をつけて立っていた。腕を組み、帳簿を脇に挟んだまま、カイを見ている。目の下の隈が、夕陽に照らされて影を作っていた。
「お前が出て行くのは反対だ」
ロイドの声は事務的だった。だがその奥に、帳簿の数字では測れないものが滲んでいる。
「だが止められないのも分かってる。親父が止めないなら、俺が何を言っても同じだ」
カイは黙っていた。
「なら一つだけ約束しろ」
ロイドが壁から背を離し、カイの前に立った。22歳。カイより5つ年上。だがその目には、カイと同じ種類の疲れがあった。
「この集落を、これ以上の危険に巻き込むな。お前が灰域で目立てば、ラストヘイム出身だと知られる。結局ここが狙われる。それだけは避けろ」
カイは答えた。
「分かってる」
「分かってるなら、言うことはない」
ロイドが背を向けた。3歩。4歩。そして立ち止まった。
「……テオさんの時と同じことになるのが怖いんだ」
その言葉を口にした瞬間、ロイド自身が驚いた顔をした。言うつもりはなかったのだ。カイには分かった。ロイドの背中が、ほんの一瞬だけ震えた。
だがロイドはそれ以上何も言わず、広場の向こうに消えていった。
カイは一人になった。
夕暮れの風が、砂と鉄粉を運んでくる。灰域パンの焼ける匂いと、大鍋の湯気が集落の中心から漂ってきた。いつもの夕食。いつもの匂い。
この匂いを、しばらく嗅げなくなる。
カイは拳を開いた。鉄粉がこびりついた掌を見つめた。この手で直した残殻で、ここを出る。父が歩いた道を、追いかける。そのために、この場所を離れる。
広場の向こうで、ロイドが壁に背をつけて天を仰いでいるのが見えた。
「……同い年なんだよな、あいつ」
その呟きは、誰にも届かなかった。




