|鉄殻《てっかく》の外の世界
鉄殻の外に出て初めて、足の裏が世界に触れた。
生身で歩く灰域は、鉄殻の中とはまるで別の世界だった。
カイはガルドと並んで、旧世界の道路の残骸を歩いていた。アスファルトが割れ、隙間から灰原草が伸びている。白くなりかけた穂が風に揺れるたびに、乾いた音が鳴った。草の葉が指を切りそうなほど硬い。灰域の植物は、こうして硬く鋭くなることで砂嵐を生き延びる。穂の白さは枯れているのではなく、繊維が石灰化しているのだとガルドが昔教えてくれた。
残殻は修理中だ。燃料も節約しなければならない。だからこの偵察は、二人の足で行く。
カイはゴーグルを首から提げ、厚底の安全靴でアスファルトの破片を踏み締めた。足裏に地面の凹凸が伝わる。鉄殻のコックピットでは感じられない情報だ。地面の硬さ。砂利の粒の大きさ。地中の水分量の違いによる土の締まり具合。足裏が、世界を読んでいる。
安全靴の底を通しても、地面の温度が伝わった。朝の大地はまだ冷えている。コンクリートの破片は特に冷たく、砂地はそれより僅かに温かい。日差しの当たる場所と影の境界で、足裏の感触が変わる。
風が変わった。左から吹いていた風が、正面に回った。砂の粒が顔を叩く。粒の大きさが違う。さっきまでの細かい砂塵ではなく、やや粗い砂利混じりの風。地形が変わっている証拠だ。前方に、何かがある。
空気の匂いも変わった。砂と鉄錆の灰域の匂いに、コンクリートの粉塵の匂いが混じり始めた。旧世界の建造物が近い。
「鉄殻に乗っていると、こういう情報は全部計器の向こう側だ」
ガルドが歩きながら言った。赤葉の煙草を咥え、くたびれた作業着の袖を肘まで捲っている。ツールベルトの工具が、歩くたびに微かに鳴る。金属同士が触れ合う小さな音。
「テオも灰域を歩いた。鉄殻では入れない場所を、何度も生身で通った」
カイは足元を見た。アスファルトの罅割れた道路。かつてここを車が走っていた。鉄殻に乗らずに人が移動できた時代のインフラだ。道路標識の残骸が砂に半分埋もれている。文字は風化して読めない。かろうじて矢印の形だけが残っていた。錆びた金属板が風に揺れ、軋む音を立てている。
「足の裏で世界を知る。それが冴覚の始まりだ」
ガルドの言葉が、風に混じった。
生身で灰域を歩く怖さを、カイは改めて知った。
鉄殻に乗っていれば、灰域狼も略奪者も恐くない。装甲が守ってくれる。計器が情報をくれる。エンジンの振動が体を包んでくれる。コックピットの中は、世界から切り離された安全な箱だ。
だが生身では、何もかもが脅威になる。風の音が違って聞こえる。遠くの崩れたビルの隙間から何かが覗いている気がする。足音が砂に吸い込まれて、自分がどれだけ歩いたか分からなくなる。空が広い。遮るものがない。鉄殻のモニター越しに見る空と、生身の目で見上げる空では、圧倒的に大きさが違う。
心拍が上がった。クレアの言葉を思い出す。深呼吸して脈拍を落とせ。カイは息を吐いた。長く、ゆっくりと。鉄錆と砂と灰原草の匂いが肺を満たした。乾いた、硬い匂い。この匂いを吸って育った。
落ち着く。五感が研ぎ澄まされるのを感じた。冴覚の兆候ではない。ただ、意識が鮮明になっただけだ。生身の体が、世界と直接つながっている感覚。皮膚が風を感じ、足裏が大地を感じ、鼻が空気を読む。
* * *
旧世界の道路を2時間ほど歩くと、地形が変わった。
道路の両側に、崩れたコンクリートの壁が続いている。旧世界の建造物の残骸だ。壁面にはパイプが露出し、錆びた鉄筋がコンクリートの隙間から飛び出している。鉄殻が通れない幅の路地。人間だけが通れる道。壁の間に入ると、風が止んだ。代わりに、コンクリートの粉塵と錆びた金属の匂いが濃くなった。水の匂いもした。どこかで地下水が染み出している。
カイはこの手の道を子供の頃から歩いてきた。旧世界の排水路。鉄殻のサイズでは入れないインフラの遺構。そこが灰域の子供たちの遊び場であり、廃材回収の狩り場だった。壁に手を触れると、コンクリートのざらついた感触が掌に伝わる。冷たい。日差しが届かない場所は、季節を問わず冷えている。
路地を抜けると、視界が開けた。
旧世界の高速道路の残骸だ。
2車線分の幅が残った高架橋が、半ば崩れた状態で空に突き出している。橋桁のコンクリートが割れ、鉄筋が露出し、そこに灰原草が絡みついている。白い穂が風に揺れ、橋の輪郭を柔らかくしていた。橋の欄干に「A7」という文字がかろうじて残っていた。旧世界の高速道路の番号だ。塗料が剥げて金属の地が見えている。指で触れると、文字の凹凸が指先に伝わった。
「あの偵察で見た橋だ」
カイは呟いた。先日、ガルドと二人で集落周辺を巡回した時に遠くから見えた橋。テオの地図にも書かれていた。
橋の手前に立った。欄干に手を触れると、コンクリートの冷たさが掌に伝わった。表面がざらついている。30年以上の風化。だが構造自体はまだ残っている。旧世界の建築技術は、鉄殻の装甲とは別の意味で堅牢だった。橋の上に足を踏み出すと、靴底を通じてコンクリートの硬さが伝わった。路面の亀裂に灰原草が根を張り、その隙間から砂が吹き上がっている。
橋を渡れば、東に続く灰域がある。カイは橋の向こうを見つめた。灰色の大地。灰原草の海。地平線が霞んで空と溶け合っている。あの先に何があるのか、カイは知らない。ラストヘイムの外を歩いた距離は、せいぜい半日の行程だ。その先は、カラス商隊の商人の話でしか知らない世界。
ガルドが隣に立った。煙草の煙を吐き、東の空を見た。煙が風に千切れ、橋の向こうへ流れていく。
「ストーンクロス。灰域最大の独立集落だ」
その名前を、カイは噂でしか聞いたことがなかった。カラス商隊の商人が口にする名前。エールが旨いと言われる場所。灰域で唯一、まともな市場がある集落。交易路が交差する要衝。
「テオの足跡を追うなら、まずあそこだ」
ガルドの声は静かだった。煙草の灰が風に散る。
「テオはストーンクロスに何度も立ち寄っていた。あそこには灰域の情報が集まる。テオが何をしていたか、誰と会っていたか。手がかりがあるとすれば、まずあそこだ」
カイは崩れた橋の向こうを見つめた。風が砂を巻き上げている。灰原草の穂が白く揺れている。あの先に、父がいるかもしれない。父の足跡が、あの地平線の向こうに続いているかもしれない。
胸のポケットに手を当てた。テオの地図がある。マーサが渡してくれるであろう、父の手書きの道路地図。まだ手元にはないが、カイには分かっていた。この先に行くことになる。この橋を渡ることになる。
ガルドが背を向けた。
「戻るぞ。日が暮れる前にラストヘイムに帰らなきゃならん。生身で夜の灰域を歩くのは、俺でも御免だ」
ガルドの声に、いつもの軽さが戻っていた。だがその軽さの裏で、ガルドもあの橋の向こうを見ていた。
帰り道、カイは何度も後ろを振り返った。
崩れた橋のシルエットが、灰色の空に黒い線を引いている。あの向こうに、世界がある。ラストヘイムの外の灰域。父が歩いた道。
カイの足が、砂を踏む。一歩ごとに、足裏が世界を読んでいる。鉄殻のコックピットでは感じられない、生の感触。砂の温度。地面の硬さ。風が運ぶ匂い。
ガルドが言った。足の裏で世界を知る。それが冴覚の始まりだ。
カイはまだ、それが何を意味するのか完全には理解できていなかった。だが体は覚え始めていた。世界は、鉄殻の装甲の向こうにあるのではない。自分の皮膚に直接触れている。
砂の匂い。鉄錆の匂い。灰原草の乾いた匂い。風が運ぶ温度。地面の硬さ。全てが情報だ。鉄殻の計器では数字にしかならないものが、生身の体では感覚になる。その感覚を研ぎ澄ませることが、冴覚の入り口だと、ガルドは言っている。父もこの道を歩いたのだろう。この砂を踏み、この風を感じ、この匂いを嗅いだのだろう。




