冴覚の代償
クレアの診療所は朝でも薄暗い。
天井の低いコンクリートの部屋。窓は小さく、入ってくる光は灰域の曇天を通したくすんだ白だ。消毒液の刺すような匂いと古い包帯の繊維の匂いが混じっている。壁際の棚に並んだ瓶詰めの消毒液が僅かな光を反射して琥珀色に光っていた。
カイは診察台に腰を下ろしてクレアの前に座っていた。診察台の革は冷たく、座ると尻の下で硬い音を立てた。こめかみの頭痛は昨日より軽い。だが頭の奥に芯のような鈍さが残っている。水を飲んでも寝ても消えない。指で押せば消えそうな気がしてこめかみを揉んでみたが、何も変わらなかった。
「経過は良好。脳震盪の兆候は消えた」
クレア・アシュバーンは丸眼鏡を押し上げ、ペンライトで瞳孔を確認しながら言った。光が眼球を刺してカイは反射的に瞬きした。その光がいつもより鋭く目の奥に届く気がした。
「だが冴覚の負荷は別問題よ。戦闘から3日経っても頭痛が残っているのは、脳が回復しきっていない証拠」
クレアの声は淡々としていた。左手の曲がった薬指と小指がペンライトを器用に操る。折れたまま固まった指だ。それでも器具を扱う手つきに迷いはなかった。
「冴覚について、もう少し詳しく聞きたい」
カイは言った。知らないままでは次に使う時に壊れる。昨日クレアが口にした「壊れる」という言葉が、頭の奥の鈍い熱とまだ繋がっている。聞くのは怖い。だが知らないまま機体に乗る方がもっと怖かった。
クレアはペンライトを棚に戻し、診察台の横の椅子に座った。膝の上にカルテを載せてカイの目を見た。丸眼鏡の奥の暗い灰色の瞳が医師の目になる。
「冴覚は脳の情報処理が通常の数倍速で行われる状態。先天的素養が土台にあって、極度のストレスが引き金になる。あなたの場合、戦闘のストレスが発現を促した」
「父も同じだったとガルドが言った」
クレアの手が一瞬だけ止まった。カルテに走らせていたペンの先が紙の上で動きを止める。父の名前を出すといつもこうだ。前から気づいていた。
「冴覚の遺伝性は証明されていない。だが親子で発現するケースが複数報告されているのは事実よ」
クレアは慎重に言葉を選んだ。ペンを持つ左手の曲がった薬指が微かに力んでいる。
「代償の話をする」
クレアの声が医師のそれに戻った。背筋を伸ばし、カルテに視線を落とす。
「鼻血は、出たでしょう」
「……出た」
「なら、もう中度に入ってた。連続使用が10分を超えたあたりから、鼻の奥の毛細血管が破れ始める。鉄の味がしたはずよ」
カイは無意識に鼻に触れた。指先で小鼻を押さえると、あの戦闘後の記憶が蘇る。操縦桿を握ったまま上唇に生温かいものが垂れてきた。拭った手の甲が赤く濡れていた。あの時は興奮していて痛みも感じなかった。確かに口の中に鉄の味がした。
「軽いうちは、こめかみの奥が脈打つ。5分以内ならそこで済む。問題はその先」
クレアはカルテに視線を落としたまま続けた。
「音が遠くなる。操縦桿を握っている手の感覚が消える。自分が何をしているのか、一瞬分からなくなる。そこまでいったら――」
クレアは言葉を切った。そして声に力が入った。医師の淡々とした声ではなく知っている人間の声になった。
「その先は、戻ってこられなくなる。視覚も、聴覚も、記憶も。脳は、一度壊れたら直らない」
カイは黙っていた。診療所の空気が消毒液の匂いと共に重く沈んでいた。膝の上で両手を組んだ。整備で硬くなった指の節がいつもより冷たく感じる。
あの戦闘で相手の動きが手に取るように読めた。汎殻の砲身が動く一瞬前に体が勝手に反応していた。あの高揚は――気持ちがよかった。あれが脳を削っていたとさっき聞いたばかりなのに。それを認めてしまうのが怖い。それでも二度と使わずに済むとは――。
外から修復作業の木槌の音が聞こえてくる。規則正しいリズム。誰かが板を一枚ずつ打ちつけている。カイはその音をしばらく聞いていた。
「制御する方法はないのか」
自分の声が少し掠れていた。
「完全な制御は難しい。だが、発動の兆候を感じたら意図的に深呼吸して、脈拍を落とせ。心拍を下げれば、脳への血流量が抑えられる」
クレアは立ち上がり、棚から古い資料を取り出した。紙が黄ばんでいる。セルヴィス時代のものだろう。表紙の文字は見えなかったが、中には手書きの図表が並んでいた。脳の断面らしき図と書き込みの数字。カイが覗き込もうとすると、クレアは資料を閉じて膝の上に戻した。それきり開かなかった。
「使用時間を、自分で管理すること。5分を限度にしなさい。それ以上は、命の前借りよ」
命の前借り。あの戦闘でカイが冴覚を使ったのは何分だったのか。時間の感覚は曖昧だったが、鼻血は出た。5分なんてとっくに超えていた。
クレアは静かに付け加えた。
「セルヴィスでは冴覚持ちは最優先の回収対象。冴覚に加えて鋳脈を施せば、反応速度が桁違いの操手になる。だが、その代償は……」
クレアの声が止まった。
ガルドが診療所の入り口に立っていた。いつからそこにいたのか。足音は聞こえなかった。壁に背をつけて腕を組んでいる。赤葉の煙草は消えていた。苦い残り香だけが空気に漂っている。この男は診療所の中では煙草を吸わない。
クレアとガルドの目が合った。
沈黙。
消毒液の匂いの中で、二人の間に何かが張り詰めた。クレアの曲がった薬指がカルテを握りしめた。ガルドは目を逸らさない。二人の間で何かが言葉にならないまま固まっている。カイにはそれが何なのか掴めなかった。前にもこの沈黙を見た。鋳脈という言葉が出るたびこの二人はこうなる。
クレアは言葉を飲み込んだ。
「……今は冴覚の話をしている」
無理に話題を戻す声に微かな震えがあった。
カイは立ち上がった。頭痛は薄れている。だが頭の中は重い。整理しようとするほど像がほどけていく。
診療所を出ようとした時、クレアが背中越しに言った。
「カイ」
振り返る。クレアは椅子に座ったまま、丸眼鏡の奥からカイを見ていた。朝の薄い光がクレアの細い顔を横から照らしている。首筋の小さな刺青が影の中に見え隠れしていた。セルヴィス軍医の識別番号。消そうとして火傷させたが、消しきれなかった痕だ。
「あなたのお父さんのカルテが、まだ私の手元にあるの」
カイの足が止まった。背中の筋肉が強張る。
「今は見せない。でも、いつか見る日が来る。その時まで、自分の体を大事にしなさい」
テオのカルテ。
父はクレアの患者だったのか。父の体に何が起きていたのか。
カイは棚に並んだカルテの束に思わず目をやった。何年分あるのか分からない、古い紙の塊。あの中の一冊に父が書かれている。手を伸ばせば届く。だが伸ばせなかった。
カイは口を開きかけて閉じた。何も言えなかった。ただ頷いて診療所を出た。
外の空気が頬を叩いた。砂と鉄錆の匂い。冷たい空気が肺を満たし、消毒液の匂いを押し出した。診療所の薄暗さに慣れた目に灰色の空すら眩しい。カイはしばらく扉の前に立っていた。集落の方ではまだ修復の木槌が鳴り続けている。誰かがカイに気づいて手を振った。カイも片手を上げて応えた。
頭の奥の鈍い熱がまだそこに居座っている。カイは目を細め、診療所に背を向けて歩き出した。風が背中を押した。




