残鳴の先へ
朝が来た。
灰色の空に薄く青が覗いている。雲の層が昨日より薄い。春の光が灰域の大地に柔らかく落ちている。
カイはラストヘイムの壁の上に立つ。
集落の外縁を囲む旧世界のコンクリートと廃材で補強された壁。崩れた箇所は新しい木材で塞がれ、釘の頭が朝日を反射している。カイが昨日打った釘もある。少し曲がっている。ゲオルグなら真っ直ぐに打てるが、それでも釘は壁を留めている。
壁の上に立つとラストヘイムの全景が見える。廃墟の上に建てられた200人の集落。半壊した建物とその間に組まれた新しい梁、瓦礫と木材が混在する通り。朝の炊事の煙が何本も立ち上っている。大鍋で乾燥豆と干し肉を煮る匂いが風に乗って壁の上まで届く。ラストヘイムの朝の匂いだ。
かつてこの場所に立ったことがある。
17歳の時、ラストヘイムを出る前だった。崩れかけた建物の屋上から、灰原草の白い穂が荒野の果てまで続いているのを見た。あの時は秋が近かった。灰色の空の下に鉄錆色の大地が広がっていた。何があるか分からない世界に向かって胸の奥で小さな警鐘が鳴っていた。冴覚の最初の兆候だったのかもしれないし、あるいはただの直感だったのかもしれない。
今は春が近い。
灰原草の穂が白から緑に変わり始めている。冬の枯れ色が退き、淡い緑が地面を覆い始めている。遠くの丘陵の稜線にも緑の気配が滲んでいる。灰域鴉が空を渡り、黒い翼がいつもより高い場所を飛んでいる。
同じ灰域が広がっている。
だが全てが変わった。
壁の上から振り返るとリオンがいた。
壁の縁に腰を下ろし、足をぶらさげている。作業着の膝は泥で汚れている。昨日の給水設備の修理の続きを朝から手伝っていたのだろう。黒髪がうなじで緩く結ばれ、風に数本が解けて頬にかかる。右頬の擦り傷はもう薄い。ポラリスのコックピットでぶつけた傷だ。戦場の名残が日に日に薄れていく。
リオンはカイの方を見ず、同じ方向を見ていた。壁の外に広がる灰域を。灰原草の緑と鉄錆色の大地、そして灰色の空を。管区の整然とした都市とは何もかもが違う景色をリオンは黙って見つめている。
管区から来た女が灰域の壁の上にいる。軍服を脱いで作業着を着て、瓦礫を運び配管を直し、この場所にいることを選んだ。父のケネスにはセルヴィスに戻らないと通信で告げた。長い沈黙の後の「そうか」という一言をリオンは抱えたままここにいる。ただここにいる。それで十分だった。
足元にガルドの工具箱があった。
壁の上に持ってきたわけではない。格納区画に置いてある。だが目を閉じればあの工具箱が見える。蓋の裏のテオの名前とカイの名前。二人の技匠が遺した道具が格納区画の隅で次の手を待っている。
遠くにケストレルが立っていた。
格納区画の傍に駐機した鉄紺色の機体が春の光を浴びている。左肩の装甲は剥がれたままで、右脚のワイヤー補強もそのまま。被弾痕があちこちに残り、塗装が剥げた箇所から銀色の母材が露出している。18年分の修復痕。テオが乗りガルドが整備し、カイが受け継いだ機体。溶接の跡や色の違う継ぎ当て、左脚の関節を取り替えた時の古い固定痕。この機体が辿ってきた時間の全てが朝の光の中で静かに浮かんでいた。
傷だらけの機体だったが、まだ立っている。ラストヘイムの空の下、灰原草の緑に囲まれて。かつて兵器として生まれた機体が再建の傍らに立っている。武装を使う必要がなくなる日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。だが今はここにある。
カイは帰ってきた。
帰る場所を自分の手で守り、自分の足で帰ってきた。鋳脈なしで。冴覚と腕、そして隣にいた人間たちの力で。テオの足跡を追い、ガルドの工具を受け継ぎ、リオンと共に戦い、ボルトやリントやトワと肩を並べ、バートンやコンラッドの言葉に支えられて。そしてガルドを失って。
灰域はまだ荒野だった。
鋼城は倒れたが世界は変わっていない。統治機構体は残っている。ディートリヒは鋼城計画の理念を温存しようとしており、ヴィルヘルムも生きている。次の大崩落が来た時、何で人を守るのか。その問いにカイはまだ答えを持っていない。
ヘルガの研究メモがバートンの手元にある。冴覚とイグニスの関連を示唆する断片的な記録。それが何を意味するのかカイには分からない。いつか分かる日が来るのかもしれないし、来ないのかもしれない。
だが灰域の人間は立ち上がった。
瓦礫の上に木材を組み、壊れた配管を繋ぎ直し、通信で集落を結んで鍋を囲み飯を食った。
それだけで十分かどうかはまだ分からない。
ガルドの死は乗り越えたのではなかった。抱えたまま歩き始めた。工具箱の重さが肩にかかっている。テオの工具箱とガルドの工具箱。二つの重さを持ってカイはここにいる。その重さが消える日は来ないし、消えなくていい。重いまま歩く。それがカイの選んだことだった。
下を見た。
壁の下ではゲオルグが朝の作業を始めている。白髪を短く刈り上げた68歳の大男が廃材を肩に担いで歩く。右頬の火傷痕が朝日に照らされ、懐中時計が首元で揺れている。
ロイドがメモ帳を手に住民へ指示を出している。「水道の本管、午前中に仕上げるぞ。午後は屋根だ」。硬い表情のままで的確に人を動かしている。
リックが瓦礫の間を走り回っている。旧世界の配管部品を拾い上げ、「これ使えるかな」と大人に見せた。15歳の少年は鉄殻に乗ることではなく、鉄屑の中から使えるものを見つけ出すことに夢中になっている。
タリアが通信室の窓から顔を出し、「アイアンウェルの鉄材、明後日に届くって!」と叫んだ。風がその声を運んでいった。
日常だった。
戦場ではない。作戦室でもない。灰域の片隅の、200人の集落のただの朝だった。かつてカイが毎日過ごしていた朝。残殻の軸受けを削り、タリアと灰域パンを齧り、ガルドに怒られながらゲオルグと屋根を直した日々。あの日常が形を変えて戻ってきている。ガルドはいない。その代わりにリオンがいる。テオの工具箱とガルドの工具箱があり、傷だらけのケストレルがある。
カイは壁から降りる。
梯子に足をかけ一段ずつ降りる。靴底が地面に触れる。灰域の硬い大地の感触。この感触を知っている。17歳の時からずっと。摩耗した軸受けを素手で削り、鉄粉が指の間に食い込んだ手でこの大地に立っていた。あの日のカイと今のカイ。同じ大地の上にいるが、同じではない。
リオンが壁の上から降りてきてカイの後ろに立つ。二人の間に言葉はなかったが、言葉がなくても隣にいる。
ゲオルグがカイを見た。
「おい。西側の壁、午前中に終わらせるぞ」
「分かった」
カイは歩き出す。瓦礫の間を歩く。足元に灰原草の緑が覗いている。コンクリートの罅の間から灰原草が新しい葉を伸ばしている。
日常が始まる。
春の風が灰域を渡っていく。灰原草の穂を揺らし、瓦礫の間を抜けてケストレルの傷だらけの装甲を撫で、ラストヘイムの通りを吹き抜けていく。焚き火の煙を散らし、子供たちの声を運んで鉄錆の大地の果てまで。
鉄殻のエンジン音はない。
聞こえるのは釘を打つ音、廃材を積む音、子供たちが走り回る足音。タリアが通信室から叫ぶ声、ロイドがメモ帳を片手に指示を出す声、ゲオルグが木槌を振り下ろす音。そして遠くで流れる雪解け水の音。
灰域の空の下で春が始まっている。




