|灰域《アッシュランド》の春
灰原草が緑に変わり始めている。
ラストヘイムの外縁を覆う灰原草の野が冬の白から淡い緑へと色を移している。白い穂が残る株と根元から緑の葉を出した株が混在してまだらだが、確実に緑が増えている。日ごとに、朝起きるたびに昨日より少しだけ。
春が来る。灰域にも春が来る。
カイは集落の外縁を歩いていた。朝の修復作業が始まる前の静かな時間に、灰原草の野を見渡す。白と緑のまだらが荒野の果てまで広がり、遠くには鉄殻の残骸が点在していた。大崩落の時に撃破されたまま放置された機体の骨格が、灰原草に半ば飲み込まれている。30年間あの残骸はあそこにある。骨格を半ば飲んだ灰原草が根元から緑を出していた。
通信機が鳴った。
タリアが整備した通信設備からボルトの声が響く。ノイズ混じりだが聞き間違えようのない声だ。低く太く粗い、傭兵頭の声である。
「よお、坊主。生きてるか」
「ああ。そっちは」
「レイダーズは正式に灰域連合の戦力に組み込まれた。バートンの交渉でな。連合軍って呼び方はまだしっくり来ねえが、まあ、傭兵よりはマシな待遇だ。飯がまともになった」
ボルトの声には以前の荒々しさが戻っていた。左腕の包帯はまだ取れていないはずだが、声だけ聞けばいつも通りだ。
「リントはストーンクロスの防衛隊に正式配属になった。あいつ、赤いスカーフ巻いたまま敬礼してやがる。軍規もクソもねえな」
カイの口元が僅かに緩む。妹の形見の赤いスカーフを巻いたままストーンクロスの防衛隊の列に並ぶ22歳の青年、リントの姿が目に浮かんだ。かつてカイを睨んでいた目も、今は前を向いているのだろう。
「トワは」
カイが尋ねると、通信の向こうでボルトが間を置いた。
「行方不明だ」
短い言葉だった。
「鋼城崩壊の後、シルフを置いていきやがった。機体だけ残して、本人は消えた。誰にも言わずに」
カイは驚かない。トワ・カジャとはそういう人間だ。
「あの女は風みたいなもんだ。捕まえようとすると、指の間をすり抜ける。また会えるさ。どこかの荒野で、酒でも飲みながらな」
ボルトの声に苛立ちも心配もなかった。テオもそうだったとガルドが言っていた。
「カイ。お前は」
「ラストヘイムにいる。しばらく、ここにいる」
「そうか」
ボルトはそれ以上聞かなかった。
「元気でやれ、坊主。あと、ガルドの野郎に」
ボルトの声が止まり、通信のノイズだけが流れる。
「......いや、いい。お前が覚えてりゃ十分だ」
ボルトの声は掠れていた。ストーンクロスの鋼城崩壊翌朝にフラスコの酒をカイに差し出した時と同じ声だ。あの時もガルドの話をしようとして言葉を途中で止めていた。
通信が切れてノイズが消え、通信室に静寂が戻る。タリアはカイの方を見ずに通信機のダイヤルを静かに戻した。彼女もガルドの名前を聞いていた。
* * *
タリアが通信設備の前に座っている。
ラストヘイムの通信室は旧世界のコンクリート建物の1室を改装したものだ。壁には廃品から組み上げた受信機と送信機が並び、蜘蛛の巣のように配線が張り巡らされている。全てタリアの手で構築されたものだった。
彼女は他の集落と連絡を取り、復興物資の融通を調整している。アイアンウェルの鉄材、ストーンクロスの食料、ダスティヒルの木材。集落間の物資交換がタリアの通信網を通じて動いていた。
「アイアンウェルから鉄材が来週届く。コンラッドが手配してくれた」
タリアは腰の通信機をいじりながらメモ帳に数字を書き込み、カイに報告した。そばかすの浮いた鼻の頭に半田ごての煙で薄い煤がついているのは、通信機の修理を並行しているからだろう。タリアはいつもこうして二つのことを同時にやり、三つでもこなす。手が足りない分は速度で補うのだ。
「鉄殻に乗れなくても、情報が繋がれば人は守れる」
かつて彼女が口にした言葉が、今のラストヘイムで実際に形になっていた。
リオンは給水設備の修理を手伝っていた。
旧世界の配管が損傷した部分を廃材の鉄管で繋ぎ直す作業だ。リオンは管区で学んだ工学の知識を活かし、配管の接合方法を住民に教えている。接合部の密閉処理や水圧に耐える固定方法、管径が合わない場合の変換継手の作り方など、鉄殻の冷却系統を修理する技術がそのまま給水管の修理に活かされていた。
住民たちの態度も少しずつ変わってきた。最初は遠巻きにしていた視線がリオンの手際を見て近づいてくる。年配の女が「この配管、もう少し上に通せないかしら」と声をかけると、リオンは「この角度なら勾配が取れます」と答えた。名前も知らない隣人が手を貸し、手渡しで工具が回っていく。
カイは一人でケストレルの定期整備をしていた。
コックピットのハッチを開けて狭い操縦席に体を滑り込ませ、計器パネルの状態を確認する。故障した計器が三つに、表示が消えたモニターが二つ。通信系統のノイズも以前より増えていた。ガルドがいた頃は整備のたびに一つずつ正確になっていったこの空間が、今は一つずつ劣化していく。カイの整備では劣化を遅らせるのが精一杯で、ガルドの手には遠く及ばない。だが手を止める理由にはならなかった。
ガルドの工具箱を開けた。
精密ドライバーを手に取り、計器パネルのネジを外す。「計器を開ける時はまず一番細いドライバーだ」。頭の中で聞こえたガルドの声に従い、ネジ山を潰さないように慎重に手を動かす。左手でパネルを押さえ、右手でドライバーを回した。ガルドは左利きだったから逆だ。右利きのカイは、左手用にグリップが削れたガルドの工具を右手で握り直す。手の馴染みは違うが、それでいい。ガルドの工具をカイの手で使うのだ。ガルドほど上手くはなく時間もかかるが、決して手は止めなかった。
作業を終えた頃には日が傾いていた。
計器パネルのネジを一つ締め直すと、故障した計器の一つが微かに表示を回復する。数値は不安定だったが読めないよりはましだ。ガルドなら完全に修理できただろうが、カイにできたのは応急的な接触不良の修正だけだった。それでも昨日より一つ多く計器が動いている。
コックピットから降りて工具を片付けた。精密ドライバーを元の位置に戻し、トルクレンチを所定の場所に収める。ガルドの配置を崩さないように工具箱の蓋を閉じ、留め金をかけた。
背後に気配があった。
「カイ」
リオンの声にカイは振り向く。
格納区画の入口に立つリオンは、給水設備の修理の名残で作業着の袖が泥で汚れていた。黒髪がうなじで解けかけ、数本が頬にかかっている。
春の風が格納区画の中を吹き抜けた。外から入ってくる風には灰原草の青い匂いが混じっている。冬の間はなかった、灰域の春の匂いだ。
リオンは何も言わず、カイも何も言わなかった。
格納区画の入口の脇に広がる灰原草の緑は、昨日よりまた増えている。
二人の間を春の風が通り抜けていった。




