工具箱
三日目の夜だ。
ラストヘイムの再建作業を終え、住民たちが寝静まった後、カイは一人で格納区画に来た。
ケストレルが暗がりの中で立っている。鉄紺色の装甲が夜の闇に沈み、機体の輪郭だけが薄く浮かんでいる。コックピットのハッチは閉じてある。左肩の装甲が剥がれた箇所が影になり、内部のフレームがかすかに見える。右脚のワイヤー補強が、風に揺れて微かな音を立てている。
カイは機体の足元を通りすぎ、荷物が置かれた隅に歩く。
ガルドの工具箱が、そこにある。テオの工具箱と並んで、格納区画の壁際に置かれている。2日間、カイは蓋を開けられなかった。工具箱の前にしゃがみ込んでは、手を伸ばせずに立ち上がり、格納区画を出る。それを2日繰り返した。
三日目の夜だった。
カイはしゃがみ込む。膝が冷たい地面に触れる。しばらく工具箱を見つめる。留め金が焚き火の遠い光を鈍く反射している。ガルドが毎日油を差していた留め金。その油の膜がまだ残っている。
手を伸ばす。
留め金を外す。金属の音が小さく響く。蓋を開ける。
中は整然としている。
精密ドライバーが6本、柄の太さの順に並んでいる。ワイヤーストリッパー。ラチェットハンドル。トルクレンチ。テスター。絶縁テープ。ハンマー。ワイヤーソー。圧着端子の小箱。それぞれが決まった場所に収まっている。ガルドが毎日、作業の終わりに同じ順序で片付けていた配置。一つも動いていない。鋼城に入る前に閉じた時のまま。
油の匂いがする。ガルドが工具に塗っていた防錆油の匂い。箱を開けた瞬間に立ち上った。この匂いを最後に嗅いだのは、鋼城の崩壊翌日の夜、ケストレルの脚元でこの箱を初めて開けた時だった。あの時は闇の中で、焚き火の遠い光だけで工具を見た。今は格納区画の中。条件は似ている。だがあの夜は、何も感じないまま箱を開けた。今は違った。
カイは精密ドライバーを1本手に取る。
グリップに、ガルドの左手の圧痕が残っている。親指の位置。人差し指がかかる角度。左利きのガルドが左手で握りやすいように、グリップの表面が微かに削れている。何千回、何万回と握った手癖が、金属に刻まれている。
トルクレンチを手に取る。柄に巻かれた滑り止めのテープは、三重になっている。1巻目のテープが擦り切れた上に2巻目を重ね、それも擦り切れた上に3巻目。ガルドはテープを剥がさない。上から巻き足す。理由を聞いた時、ガルドは「下の層に手の馴染みが残ってるからだ」と答えた。
ハンマーの柄には小さな傷がある。カイが12歳の時、整備を手伝おうとしてハンマーを落とし、柄に傷をつけた。ガルドは「工具を落とすな。工具が泣く」と叱った。あの日の傷が、まだここにある。
蓋の裏に目が止まる。
名前が刻まれている。
テオ・セヴァル。
細い線で、丁寧に刻まれた文字だ。蓋の裏のテオの名前。ガルドが受け継いだ箱だ。
その横に、別の名前が追記されていた。
カイ・セヴァル。
テオの名前より少し大きな字で、少し粗い線で刻まれている。ガルドの手の筆跡だ。いつ書いたのか分からない。出発する前か。鋼城に向かう途上でか。カイの知らない時間に、ガルドは蓋の裏にカイの名前を刻んでいた。
テオの名前と、カイの名前。
カイの目が熱くなる。
視界が滲む。工具箱の中の工具が、ぼやける。精密ドライバーの銀色。トルクレンチの黒い柄。ハンマーの鉄灰色。全てが歪んで、溶けて、形を失った。
声は出なかった。鋼城の残骸の前で泣き尽くしたはずだった。もう出ない。だが蓋の裏の二つの名前が、乾いたはずの場所からまだ残っていたものを引き出した。
カイは工具を一つずつ手に取る。
精密ドライバー。ガルドがケストレルの計器パネルを開ける時、必ずこれを最初に使った。「計器を開ける時はまず一番細いドライバーだ。ネジ山を潰したら終わりだからな」。
ワイヤーストリッパー。被覆を剥く時のガルドの手の動きが頭に浮かぶ。左手でストリッパーを握り、右手でワイヤーを送る。一定の速度で引き抜く。速すぎても遅すぎても芯線を傷める。
圧着端子の小箱。蓋を開けると、端子が種類ごとに仕切られていた。丸型、Y型、棒型。ガルドは端子を選ぶ時、必ず指先で端子の縁を触って確認していた。目だけでは信用しない。指先の感触で、圧着の精度を判断する。
カイは操手だった。技匠ではない。だがガルドの隣にいた7年間で、工具の使い方は体に染みていた。教わったというより、見ていた。毎日、ガルドの手が工具を握る姿を見ていた。10歳の時からずっと。ケストレルの関節を直す手。配線を繋ぎ直す手。計器パネルのネジを締める手。不器用な男だった。言葉の代わりに、いつも手を動かしていた。
その手がカイに残したものが、この箱の中にある。
最後の工具を箱に戻す。
テオの工具箱にも手を伸ばした。こちらは小さい。蓋を開けると、テオの名前だけが裏に刻まれていた。工具の数はガルドの半分ほどだった。精密ドライバーが3本。小型のモンキーレンチ。テスター。テオは操手だった。技匠ほどの工具は持たない。だが自分の機体の最低限の整備はできるだけの道具を、常に持ち歩いていた。
二つの工具箱を並べる。
テオの箱。ガルドの箱。父と、父の親友。操手と技匠。二人の男が遺した道具が、格納区画の隅に並んでいる。二人とも、もういない。テオは消え、ガルドは鋼城と共に灰域の大地の下に沈んだ。だが工具は残っている。手の形を刻んだグリップ。使い込まれた金属の光沢。テープの巻き癖。
カイはテオの工具箱に手を触れる。蓋の表面が滑らかだ。テオの指がどれだけこの箱を撫でたか、想像もつかない。カイにはテオの記憶がほとんどない。いつも背中を向けていた父の姿。ゲルハルトが語った「笑いながら機体に乗る男」の像。ガルドが時折漏らした、テオへの不器用な敬意。テオの手は、こういう大きさだった。こういう道具を使って、鉄殻を整備していた。
カイは工具箱の蓋を閉じる。
留め金をかける。金属の音がもう一度、格納区画に小さく響く。
立ち上がる。膝が少し痺れている。どれくらいの時間しゃがみ込んでいたのか分からない。
格納区画から出る。外は暗かった。だが空気が違った。吸い込んだ息に、僅かに湿り気があった。冬の乾いた空気とは違う。夜風に混じる、微かな水の匂い。遠くの山地で雪が融け始めているのだろう。その水が地下を流れ、灰域の大気に湿りを与えている。
足元を見る。
格納区画の入口の脇に、灰原草が生えていた。冬の間は白く枯れた穂を垂れていたはずの灰原草が、根元から新しい葉を出していた。薄い緑色。暗がりの中では灰色にしか見えないが、指で触れると、枯れた穂とは違う柔らかさがあった。新しい命が、枯れた茎の根元から伸びている。
カイは立ったまま、しばらくその緑を見つめた。冬に枯れても根は生きている。
空を見上げる。灰色の雲の向こうに、星があるはずだった。タリアと見た、あの雲の切れ間の光。今は見えない。だがある。
春が近い。




