ラストヘイムの傷跡
コルヴァスが去った後のラストヘイムは傷だらけだった。
カイは崩れた外壁の修復作業に汗を流していた。住民が総出で瓦礫を運び、板を打ちつけ、割れた窓を廃材の板で塞いでいる。鉄錆と粉塵の匂いが空気に濃く混じり、木槌の音が集落に響いていた。叩く音、運ぶ音、声を掛け合う音。いつもの静かなラストヘイムとは音の密度が違う。
外壁の一角は戦闘の余波で大きく崩れていた。コンクリートの破片が散乱し、住居の一部が傾いている。屋根を支えていた梁が折れ、中の家財道具が瓦礫に埋もれていた。廃材の椅子。陶器の破片。誰かが大事にしていた毛布が砂と粉塵にまみれて地面に広がっている。カイは毛布を拾い上げて砂を払い、瓦礫の上に畳んで目につくところに置いておく。カイは梁の残骸を肩に担ぎ、廃材の山へ運ぶ。木の繊維が肩に食い込み、棘が首筋を引っ掻いた。背中に汗が伝う。秋の風が吹いても作業の熱が体を離れない。何度往復したか分からない。手のひらの皮が軍手の中で擦れて熱を持っていた。
砂を踏む足裏に地面の硬さの違いが伝わってきた。鉄殻の足跡だ。残殻のものより一回り深い窪みがその隣にあった。縁が鋭く崩れている。人の足ではこうはならない。
「カイ兄、またあいつら来るのか」
瓦礫の隙間からリックが顔を出した。語尾が震えている。首から下げた旧式の双眼鏡は埃まみれで、レンズには細かい傷が入っていた。戦闘の振動で棚から落ちたのだろう。あんなに大事にしていたのに。
「分からない」
カイは正直に答えた。嘘をつく理由はなかった。
リックは唇を噛んだ。何か言いたげに口を開きかけたが、結局黙って瓦礫の運搬に戻った。小柄な体が大人の半分ほどの大きさの廃材を引きずっていく。膝が砂に汚れている。手袋をしていない指先が赤くなっていた。カイは廃材を一本、リックの抱えている山に積んでやった。リックは小さく頷き、また引きずっていく。何も言わなかった。
ロイドが広場の中心で復旧作業を指揮していた。黒髪を後ろに撫でつけた若者がメモ帳を片手に淡々と指示を出している。目の下の隈がいつもより濃い。
「井戸のポンプは無事だ。水の供給に問題はない。壊れたのは外壁の南側と東端の住居3棟。屋根の応急修理を優先しろ。今夜雨が降ったら終わりだ」
淡々と言い切る声に、屋根の上の住民が手の動きを速めた。数字で区切られると手が動く。
カイがロイドの横を通りかかると、ロイドは視線を上げずに言った。
「備蓄の棚卸しが済んだ。水は12日分。食料は8日分。戦闘の余波で窯が壊れたから、灰域パンが焼けない。当面は干し肉と乾燥豆で凌ぐ」
右手のメモ帳にびっしりと数字が並んでいる。配給量、残日数、人数。
カイはロイドの横顔を見た。への字に結ばれた口元。鋭い顎のライン。今日は父・ゲオルグに似て見えた。
* * *
昼食は乾燥豆を煮たものと干し肉だった。乾燥豆は土の味がした。パンの一切れもない食卓は噛むものがなくて顎が手持ち無沙汰だった。住民たちは黙々と食べていた。食器がぶつかる音だけが響く。冗談を言う声も笑い声も今日はなかった。
干し肉を噛みながら診療所の前を通ると、消毒液の匂いが廊下まで漏れていた。クレアが負傷者の経過観察を続けている。
幸い死者は出なかった。診療所の戸口から覗くと、寝台に横たわった老人の足裏にクレアが屈み込んでいた。ガラスの破片で切ったのだろう。「動くな、まだ固まっていない」。隣では額に包帯を巻いた子供が母親の胸でぐずっていた。灰域の医療でどうにか対応できる範囲だった。カイは戸口から離れた。背中で子供のぐずる声がまだ続いている。
包帯を巻くクレアの左手の曲がった薬指がふと止まった。
「次は来る。来ないと思う方がどうかしてる」
独り言のような呟きが薄暗い壁に吸い込まれた。カイは黙っていた。消毒液の匂いが喉の奥に張りついた。
広場の端まで瓦礫を運んだとき、ゲオルグの声が聞こえた。コンクリートの塊に腰を下ろしたまま、住民一人一人に声をかけている。
「大丈夫だ」
その一言を繰り返す。白髪を短く刈り上げた頭。太い腕。火傷痕の引き攣れた右頬。古い戦を知る体が背中を丸めていた。
その低い声を聞くたびに近くの住民が手を止め、また動き出した。広場の隅でぐずっていた子供が泣きやんだ。カイも運んでいた廃材を一度地面に下ろして息をついた。腰が鈍く痛む。朝からどれだけ運んだかもう数えていない。
だがカイは見ていた。「大丈夫だ」と言うたびにゲオルグの右手が懐中時計を握り込むのを。亡き妻の形見。金属の蓋にはこすれて消えかけた傷がある。
* * *
背後から声がかかってカイは振り返った。タリアが通信小屋から出てきたところだった。いつもの大きすぎるジャケットを羽織り、腰のポータブル通信機が歩くたびに揺れている。
「通信を傍受した。セルヴィスの暗号化通信に、ラストヘイムの名前が出た」
カイの手が止まった。
「間違いないのか」
「周波数帯はコルヴァスのもの。座標指定付きの報告文だった。暗号は解読できてない。でも、ラストヘイムって単語だけは平文で出てた」
タリアの明るい茶色の目に普段の快活さはなかった。半田ごての跡が残る指先が通信機のケーブルを握りしめている。
「カイ」
タリアは声を落とした。鼻の頭のそばかすが夕陽に照らされている。
「あんた、やっぱり出ていくつもりでしょ」
カイは答えなかった。タリアはしばらくカイの顔を見ていたが、やがて溜息をついて通信小屋へ戻っていった。大きすぎるジャケットの背中が戸口の暗がりに消える。背中越しに聞こえた声は小さかった。
「……分かってるよ」
その背中に何か言いかけてやめた。口の中で言葉がほどけて形にならない。カイは結局また瓦礫を担ぎ上げた。
修復作業を手伝いながらこの場所のことを考えていた。
リーヴの声がまだ耳に残っている。報告する、と言った。カイ・セヴァル。その名がセルヴィスの紙のどこかに書かれる。ラストヘイムと並べて。瓦礫を担ぐ肩が急に重くなった。
瓦礫を運ぶ手を止めて集落を見渡した。修復中の外壁。屋根に板を打ちつける住民たち。広場の隅で乾燥豆を煮ている鍋から湯気が立ち上っている。塩と豆の素朴な匂い。この匂いの中でみんなが生きている。
いっそ何も知らなければよかった。
工具を握る手に昼に食った豆の匂いがまだ残っている。
夕暮れ時、修復中の壁の前を通りかかった。
空が灰色から紫に変わりかけている。風が冷たくなっていた。砂の匂いの中に夜の気配が混じり始めている。
リックが炭で壁に絵を描いていた。鉄殻の絵だ。子供らしい歪んだ線だった。四肢が縄のように曲がり、頭ばかりが大きい。
だがその鉄殻は口のような部分が大きく開き、目のような部分が赤く塗られていた。その足が小さな四角い形を踏みつけている。家だろうか。炭の線が壁に黒く残り、夕陽がそれを薄い橙に照らしていた。
リックはカイの視線に気づき、慌てて炭を隠した。背中に回した手には炭の粉が残っている。
「別に、何でもない」
カイは何も言わなかった。
カイは新しい修繕跡に手を当てた。コンクリートはもう乾いている。炭の線はリックが粉を払った後も、薄い影になって壁に残っていた。
風が冷たくなった。夜が近い。修復作業の音が遠ざかっていく。




