父の影
夜の作業場は油と金属粉と赤葉の匂いで満ちていた。
ガルド・ヴェッセンは残殻の脚部を分解した棚の前に座り、遺灰酒の瓶を手に取った。芋から作ったラストヘイムの蒸留酒だ。琥珀色の液体が灯油ランプの光を受けて揺れた。一口含むと喉が焼け、舌の上に芋の甘みが一瞬広がってからすぐにアルコールの鋭さに変わった。ガルドが酒を飲むのは珍しくない。だがこんな夜更けに何かを切り出すように瓶を傾けるのはめったにないことだった。
カイは作業台の向かいに座っていた。工具袋を膝に乗せ、ガルドの言葉を待っている。膝の上で指が無意識に工具袋の口紐をいじっていた。何度も結び直してはまた解く。手元の小さな動きだけが静まり返った作業場で続いていた。
灯油ランプの光が二人の間の作業台に散らばった工具を橙色に染めていた。スパナ、ペンチ、旧世界の六角レンチ。どれもガルドが集落に来る前から使い込んだ手触りで油が薄く光っていた。
「テオはただの傭兵じゃなかった」
ガルドの声は低く作業場の壁に吸い込まれるように響いた。その声を聞いた瞬間カイの背筋が伸びた。普段のどこか投げやりな軽さがない。
炉の中で廃材が爆ぜて火の粉が一つ飛んだ。
「グランヴェルト工業連盟。聞いたことがあるか」
「鉄殻を作ってるところだろう。灰域にも部品が流れてくる」
「そうだ。鉄殻を作ってる連中の、一番でかいとこだ。統治機構体の中でも、別格でな。テオは、そこと傭兵契約を結んでいた」
ガルドは遺灰酒をもう一口飲み、瓶を棚に戻した。ガラスと金属がぶつかる乾いた音がした。
「ただの契約傭兵じゃない。テオはグランヴェルトが進めていたある計画に、深く関わっていた」
カイは黙っていた。灯油ランプの炎が揺れるたびにガルドの皺の影が動いた。目尻の深い皺や口元の線。こんな顔を今まで見たことがあっただろうか。
「そしてその計画に反旗を翻した。何かを持ち出して、逃げた」
「何を持ち出したんだ」
「それは、まだ言えない」
ガルドの目がカイを射た。飄々とした普段の目ではなかった。暗い茶色の瞳の奥底が凍りついている。炉の火が瞳に映り込んで琥珀色の光が揺れた。
「だが、テオは灰域を守るために動いていた。自分のためじゃない。お前のためでもない。灰域に住む全ての人間のためだ。それだけは信じろ」
信じろと言われてすぐには頷けなかった。喉の奥が固い。
「なら、なぜ消えた」
声が自分でも驚くほど硬かった。作業場の空気が張り詰める。炉の火が一瞬弱まって二人の影が揺れた。
「灰域のためなら、ここにいればよかった。俺と一緒に、ここにいればよかったじゃないか」
ガルドの手が遺灰酒の瓶を握りしめた。指の関節が白くなる。左手の中指と薬指の火傷痕がランプの光に照らされた。あの火傷はいつ負ったものなのか。カイは初めてそれを問いたくなった。
「……あいつを追う連中がいたからだ」
ガルドの声が初めて掠れた。煙草を灰皿に押しつけると火が消え、最後の煙が天井に昇っていく。
ガルドは新しい煙草に火をつけず、マッチ箱を手の中で転がしている。乾いた音がしばらく作業場に続いた。カイはその音が止むのを待った。
「ここにいれば、お前とこの集落が巻き込まれる。あいつは、お前を守るために消えた」
守るために消えた。
その言葉を飲み込むのにカイは時間がかかった。守ってくれたが置いていかれたのだ。あの頃は外壁の隙間に毎朝顔を押しつけていた。冬は鉄に頬がくっついた。父が帰ってくる道を、地平線が白む方を見ていたが誰も来なかった。あの日々が「守られていた」時間だったと言うのか。
ならなぜ俺に言わなかった。この爺さんは知っていたくせに7年も黙っていた。父にではなく目の前のガルドに行き場のない怒りが向かう。理不尽だと分かっていても止められなかった。こめかみの奥でまた鈍い脈動が始まった。
「なぜ7年も黙っていた」
「お前を戦場に引きずり出したくなかったからだ」
ガルドの答えは即座だった。即座すぎた。遺灰酒の瓶を握る指や、目を逸らすときのわずかな間。7年そばにいた仕草が今夜だけ違って見える。嘘じゃないが、これで全部でもない。
だが今夜はこれ以上問い詰める気力がなかった。体が重く頭の芯に鈍い熱が残っている。
ガルドは遺灰酒を飲みながらテオとの日々を断片的に語り始めた。声が少しだけ柔らかくなる。話が進むうちにガルドの手から瓶が離れる時間が長くなり、炉に廃材をくべては火が爆ぜるのをしばらく眺めている。
「灰域を二人で駆け回った。若い頃だ。テオの残殻は俺が手入れしていた。飯も水も忘れて操縦桿を握る男でな。俺が引きずり降ろさなきゃ、夜通し動力炉を回してた」
ガルドの目がふと笑いの形になった。
「博打は弱いくせにやめられん男でな。一度、月分の稼ぎを全部すっておれに泣きついてきた。あの時の情けない顔は、今でも覚えてる」
それからふいに声を落とした。
「テオの笑い方は独特だった。声を出さずに、口角だけ上がる。目が細くなって、皺が増える。お前はあいつに似てる。顔じゃなくて、手だ」
カイは自分の手を見た。指が長く、前腕から手首にかけて腱が浮き出ている。鉄粉と砂が爪の間に入り込んでいた。左の掌には幼い頃に廃材で切った薄い傷跡がある。父と同じ手なのだろうか。
「あいつは右手の親指を操縦桿の上に乗せる癖があった」
ガルドの目がカイの右手を見た。炉の火がカイの指先を赤く照らしている。
「お前もやってるだろう」
カイは息を呑んだ。自分の癖に今まで気づかなかった。操縦桿を握る時、右手の親指が自然に上面に乗る。教わった覚えはない。7年前に消えた人間の癖が自分の指先に残っている。カイは右手を見つめた。親指がひとりでに動いた。
テオの工具箱が作業場の隅に置いてあった。ガルドがいつも大事にしている古い金属箱。その中にカイが見たことのない精密な部品が光っていたことを思い出した。ガルドが「それは、まだ早い」と言って閉じた箱だ。
「あいつの工具は、俺が全部持ってる」
ガルドは工具箱に手を伸ばし、蓋を撫でた。
「いつか返すつもりだった。返せなくなった」
工具箱から手を離して遺灰酒の瓶に戻る。もう一口飲む。瓶が軽くなっていた。
カイは工具箱を見つめた。蓋の留め金は長年の開け閉めで角が丸くなっている。テオがこの箱を持って歩き、これを開けて工具を取り出しては鉄殻を直した。父の指がここに触れていたのだと思うと、箱がやけに小さく見えた。
炉の火が弱まってきた。ガルドが廃材を一本投げ入れると火の粉が舞い上がり、一瞬だけ作業場が明るくなった。二人の顔が赤く照らされて壁の影が揺れた。
カイは天井の隙間から夜空を見上げた。雲が厚くて星はひとつもない。壁を叩く風が隙間から砂混じりの冷気を運んでくる。首筋に冷たいものが触れてカイは肩をすくめた。いつもの灰域の夜だ。
父が見た景色はこの空の向こうにある。
膝に乗せていた工具袋をカイは床に置いて立ち上がった。椅子が後ろに軋む。長く座っていた足に体重をかけた瞬間、膝から下がしびれて一瞬よろけた。
「……行くよ」
カイは呟いた。声は小さかったが静かな作業場の壁によく反響した。
ガルドは遺灰酒の瓶を握ったまま何も言わず、止めもしなかった。炉の中で廃材が低く燃え、灰が崩れる音だけが二人の間に残った。




