壊れた残殻
リオンが去り、コルヴァスが撤退した翌日。
カイは壊れた残殻の前に立っていた。
左腕はなかった。肩関節の付け根から先が遊肢の射撃で砕かれている。破断面の金属が鋭く突き出し、内部の配線が乾いた風に揺れていた。右脚の膝関節は外装パネルがひしゃげ、内部フレームが露出している。触れると軸受けが嫌な音で軋んだ。古い量産型から引き抜いた中古品をカイが朝から削り直した。それでも保たない。
胴体装甲3枚のうちもう1枚が欠け、2枚しかない。残った装甲を指で叩くと鈍い音が返る。次の衝撃で割れるだろう。
朝の空気は冷えていた。秋が深まり、吐く息が白くなりかけている。指先が悴んで金属に触れると余計に冷たさが染みた。遠くから木槌の音が聞こえる。集落の誰かが壊れた外壁の修復を始めている。その音に混じって子供の声がした。まだ怯えの残る細い声だった。
ガルドが黙って残殻の前にしゃがみ込んだ。赤葉の煙草を咥え、関節部に頬を寄せて目を閉じた。爪で表面を弾き、跳ね返る音に耳を澄ます。火傷で鈍くなったはずの指先が金属の奥の歪みを探っていく。カイは黙ってそれを見ていた。ガルドのこの仕草を何度も盗み見て覚えたのだ。
長い沈黙の後ガルドは立ち上がった。膝の砂を払い、煙草を一度深く吸った。
「直せるが、時間がかかる。部品も足りない」
煙草の灰を落とすと、風に散った。
「正直に言えば、この機体はもう限界だ」
カイは残殻の胴体に手を触れた。鉄の冷たさが掌に伝わる。朝の冷気を吸った金属は指の熱を奪う。この機体は寄せ集めだった。左腕は別の機体から移植したものだし、操縦桿のグリップは摩耗して樹脂の地が見えており、まともな鉄殻とは呼べない。それでもこの機体で廃材を運び、野犬を追い払い、集落の外縁を巡回してきた。掌の下の鉄は寄せ集めのまま、ずっとカイと一緒に冷えてきた。
カイは残殻のコックピットを覗き込んだ。狭い操縦席はいつもどおり油と汗の匂いがした。数えきれないほどの時間をこの席で過ごしてきた。シートの革が裂けている箇所には、昨日の戦闘で飛んだ破片が刺さっていた。あと指一本ぶんずれていれば自分の腿に刺さっていた。カイは破片に触れようとしてやめた。掌が薄く汗ばんでいる。グリップに残った自分の手の脂の跡をカイはぼんやりと見ていた。
「あの遊肢の前じゃ、何もできなかった」
カイは呟いた。声が乾いていた。朝の冷気が喉を刺す。
「冴覚で読めても、機体が追いつかない。先が見えても、体が動かなきゃ意味がない」
ガルドは何も言わず煙を吐き、壊れた残殻をただ見つめている。
ガルドの目が一瞬だけ遠くなった。この目を前にも見たことがある。遺灰酒を飲みすぎた夜に作業場で一人座っていたガルドの横顔、あれと同じだ。
何を見ているのかと喉まで出かかった。だが問えばガルドは答えないだろう。カイは口を噤んだ。
* * *
クレアの診療所に戻った。
消毒液の刺すような匂いが鼻をつく。朝でも薄暗い部屋の中では、灯油ランプの黄色い光が壁の棚を照らしている。瓶詰めの消毒液が光を反射し、琥珀色に揺れていた。
クレアはカイの頭部を改めて診察した。ペンライトで瞳孔を確認し、指でこめかみに触れて反射テストを行う。冷たい指が額に触れるたびカイの五感が微かに跳ねた。まだ過敏だ。
ペンライトの光を目に当てられるとこめかみの奥がずきりと疼き、カイは思わず顔をしかめる。光がいつもより眩しい。色も音も診療所の薬品の匂いも、何もかもがまだ少しだけ過剰に感じられた。
「頭痛はまだある?」
「鈍いのが残ってる」
「それが冴覚の残滓よ。昨日の使用分が、まだ脳に負荷として残っている」
クレアは丸眼鏡を押し上げ、カルテに何かを書き込んだ。ペンが紙を引っ掻く乾いた音が響く。棚には何年分か分からないカルテの束が並んでいた。
「次に使う時は、もっと意識的に制御しなさい。発動の兆候が来たら、息を吐け。深く。脈を落とせば、頭への負担が減る」
「冴覚って、何なんだ」
カイは改めて尋ねた。クレアが昨夜語った断片をもう一度整理したかったのだ。
「一部の人間が持つ、五感を超えた知覚能力」
クレアはカルテから目を上げた。丸眼鏡の奥の暗い灰色の瞳がカイを真っ直ぐに見据える。
「脳が、見えないものまで拾ってしまうの。空気の流れ。機械の音の狂い。相手の息遣い。──研ぎ澄まされすぎた感覚、とでも言えばいいのかしらね」
「超能力か」
「違う」
クレアの声が即座に返った。
「超常現象じゃない。人間の感覚が、極限まで張り詰めた状態。持って生まれる人間は、ほとんどいない」
クレアはペンを置いた。何かを言いかけて口をつぐみ、カルテに目を落としたまましばらく黙り込む。
「……セルヴィスが、冴覚持ちをどれだけ欲しがっているか」
それきり続きは言わず、代わりに丸眼鏡を外して目頭を指で押さえた。
「あなたの力は、あの連中にとって金の卵よ。気をつけなさい」
金の卵。
その言葉が消毒液の匂いの中で重く響いた。カイの中でリーヴの穏やかな声が蘇る。「セルヴィスに来い。お前の力は灰域で腐らせるには惜しい」。あの穏やかな声の裏にあった圧。カイの冴覚を知った上での、品定めの目。
カイは自分の手を見つめた。工具で鍛えられたその手は、爪の間に黒い汚れが染みついている。鉄粉と砂と錆の手だ。こんな手のどこにあの巨大な組織が欲しがるものが宿っているのか。怖いはずだったが、なぜか腹の底のどこかがほんの少しだけ熱を持った。狙われるほどの何かが自分にある。そんなふうに思ってしまう自分がいた。
ガルドが診療所の入り口に立ち、腕を組んで壁に背をつけている。赤葉の煙を吐くと、煙が天井に漂って消毒液の匂いと混じり合った。
クレアとガルドの目が合った。一瞬の沈黙の中、クレアの曲がった薬指がペンを強く握りしめる。ガルドは先に目を逸らした。暗い茶色の瞳が壁際の棚のカルテの束に一瞬だけ止まる。
二人は何も言わなかった。沈黙が消毒液の匂いの中で長く伸びていく。鋳脈。その言葉が出るたびこの二人はこうなる。何かある。だが訊いても答えは返ってこないだろう。カイは診察台の冷たい縁を意味もなく指でなぞった。爪の先が乾いた塗料を引っ掻く。
カイはそれ以上見ないことにした。
夜になった。
ガルドの作業場で二人は壊れた残殻の右脚関節を分解していた。ガルドがスパナで固着したボルトを回し、カイが外装パネルを支える。金属が軋む音と油の匂いが満ちていた。
ボルトは錆びついており、ガルドが二度三度と力を込めても回らなかった。カイが潤滑油を差してしばらく待つが、それでも渋い。結局ガルドが体重をかけ、ようやく一つ目が緩んだ。額に汗が滲んでいる。こんな単純な作業に二人がかりで半刻もかかった。残殻はどこもかしこもこうして言うことを聞かなくなりつつある。パネルを外すと内部の配線が一本、被覆が裂けて銅線を覗かせており、いつ切れてもおかしくない状態だった。カイは無言でその一本を指で押さえ、頭の中に直さなければならない箇所を一つ書き足した。
ガルドが作業の手を止めてカイを見た。炉の火が二人の顔を照らす。炉の中で燃える廃材が爆ぜて火の粉が散った。
「カイ。お前の親父の話を、そろそろしなきゃならん」
火の粉が夜に舞った。
ガルドは煙草を口から外すと、足元の土でゆっくりと踏み消した。言葉を選んでいる。こんなガルドをカイは見たことがなかった。




