軍人の選択
リオンが集落の中を歩いてきた。
軍服の裾が風に揺れている。灰青色の制服は砂埃で汚れ、右腕の包帯が痛々しい。だが背筋は真っ直ぐだった。磨かれたブーツが砂を踏む音だけが妙に規則正しく聞こえる。軍人の歩き方だ。カイはガルドの作業場の前で壊れた残殻の部品を布に包む手を止めた。油のついた布が手のひらに張りつき、剥がそうとすると指の腹に薄く残る。
集落の広場ではマーサが怯える子供たちを抱きしめていた。白髪を丸く結い上げた小柄な老女の腕が3人の子供をまとめて包んでいる。手編みのマフラーが風に揺れ、子供の頬を撫でた。ゲオルグが住民に「大丈夫だ」と声をかけ続けている。火傷の引き攣れた右頬を夕陽の橙色が滑っていく。懐中時計を握る左手はいつもより強く握られていた。
夕陽が灰域の空を染めていた。灰色の雲の裂け目から差す光が瓦礫の上に長い影を落としている。砂と鉄錆の匂いにどこかの家から焚き火の煙が混じっていた。
リオンはその光景を見渡した。深い紺色の目が一人一人の顔を辿っていく。泣き止んだばかりの子供がまだしゃくり上げながら柵の釘を拾い集めていた。リオンの視線がその小さな手の上で止まった。
「カイ・セヴァル」
リオンがカイの前に立った。
二人の距離が初めて声を潜めなくても届くほどに縮んだ。リオンの影がカイの足元に落ちている。消毒液の匂いが微かに漂う。クレアの診療所の匂いだ。それに混じって嗅いだことのない匂いがした。リオンの軍服が帯びている薄い機械油の匂い。カイの世界の油とは違う、もっと澄んだ雑味のない匂いだった。
リオンの顔が近い。色白の肌に数日分の砂埃が薄く積もっている。灰域に来る前はこんな肌ではなかったのだろう。
「コルヴァスに合流する」
リオンの声は平静だった。軍人の声だ。
「私が出れば、この集落にはもう手を出さない。リーヴはそう約束した」
カイは何も言わずにリオンの目を見つめた。紺色の瞳の奥で何かが揺れていた。あの初めて会った時の凍りついた軍人の顔ではない。
「……あなたたちを見捨てたのは、私たちだ」
リオンの声が僅かに震えた。敬語が剥がれかけている。
「統治機構体が管区を作り、灰域を見捨てた。あなたたちを無籍民にした。鉄殻を持つ側が、持たない側を切り捨てた。それは――私たちの罪だ」
カイの喉が詰まった。あの軍人が、参謀長の娘が「私たちの罪」と言っている。
風がリオンの黒髪を揺らした。うなじの高い位置で結んだ髪が頬にかかる。夕陽がリオンの横顔を照らした。紺色の瞳が夕陽を弾いて濡れて見えた。その目はカイを見ていなかった。崩れた壁を、修復に追われる住民を、釘を拾う子供の手を順に映していった。
「でも、私は」
リオンの声が途切れた。唇が震える。右手の甲の火傷痕が夕陽に照らされていた。
「もう見捨てない」
言ってしまってからリオン自身が一瞬だけ口をつぐんだ。何かを言いかけた時のように唇が動いて止まる。火傷痕の残る右手が軍服の裾を握っている。
カイの喉も何かを言いかけて止まった。油の染みた布を握る手に知らず力がこもっていた。
リオンはカイに背を向けた。一歩、二歩。足音が砂を踏む乾いた音を立てる。カイはその背中を見つめた。灰青色の軍服に真っ直ぐな背筋。うなじの高い位置で結んだ黒髪が風に揺れている。肩が微かに強張っていた。
ゲオルグが去っていくリオンの背中を見て煙を吐いた。
「あの子は、自分の信じるものが壊れた顔をしとったな」
カイは何も言えずゲオルグの横顔を見た。火傷の引き攣れた右頬と左耳の欠損。大崩落を生き延びた老人は全てを見てきた目で若い軍人の背中を見送っていた。
* * *
カイはリオンがポラリスのコックピットに乗り込むのを見上げた。
鉄殻の足元から見上げるポラリスは改めて見ると威圧的だった。楔形の胸部装甲が傾いでいる。関節を覆うカバーも薄いのに隙がない。残殻とは比べものにならなかった。リオンはあの精密な箱の中へ帰っていく。
ハッチが閉まる。金属が噛み合う音が乾いた空気に響いた。薄く鋭い装甲がリオンの姿を飲み込む。
起動シークエンスの低い唸りが始まった。機関が温まっていく振動が地面を通じてカイの足裏に伝わる。安全靴の底を通しても分かる規則正しい脈動。雑音のない澄んだ振動だ。カイは無意識にその脈動を数えていた。残殻ならこの間隔がもっと乱れて軸のどこかが擦れる音を立てる。ポラリスはただ静かに脈打っていた。
その振動の中に一拍だけ違う軋みが混じった。カイが応急修理した左脚関節だ。あの関節には灰域の工具で削り直した軸受けが入っている。セルヴィスの純正品とは程遠い代物だがカイの手が組み込んだものだ。保つか。保ってくれ。あの女が乗っている。俺が組んだ軸受けであの女が帰っていく。そう思うと奥歯のあたりに据わりの悪いものが残った。
ラストヘイムの外縁にリーヴの銘殻の黒い影が待っていた。フィンの汎殻もその横に停止している。
ポラリスが歩き出した。一歩ごとに大地が揺れて砂埃が舞い上がる。鉄殻の足裏が踏み締めた地面が窪み、乾いた土が四方に弾ける。カイはその背中を見つめた。
ポラリスの頭部が一度だけこちらへ向いた。背面モニターでこちらを見ているのだろう。コックピットの中までは見えなかった。気のせいかもしれない。だが確かに一瞬だけこちらを捉え、そして離れた。
崩れかけた外壁と廃材で組まれた屋根。この数日間リオンはここで灰域パンを食べ、鉄味の水を飲み、焚き火を囲んだ。マーサが温かいスープを差し出し、ゲオルグが「客人、遠慮なく食え」と声をかけた。湯気の立つ椀を両手で受け取っていた女の手をカイは思い出していた。火傷だらけの右手でこぼさないようゆっくりと口へ運んでいた手だ。
だがあの最後の言葉だけが砂の音に混ざって離れなかった。
ポラリスがラストヘイムの外縁を越えた。外壁の修復跡が遠ざかっていく。住民が打ちつけた板が夕陽に照らされて白く光っていた。砂塵が機体の輪郭を薄くしていく。リーヴの銘殻が向きを変え、3機が歩き出した。足音が重なり、大地を揺らす振動がゆっくりと遠ざかっていく。
やがて完全に見えなくなった。砂塵だけが残り、それも風に散った。
カイは砂塵の向こうを見つめ続けた。夕陽が沈みかけ、灰色の空に紫の筋が走っている。どこかで灰域鴉が鳴いた。低く掠れた声が夕闇に溶けていった。
ガルドが作業場の入り口に立っていた。赤葉の煙草を咥えてカイの横顔を見ている。何も言わなかった。だがその沈黙はいつもの飄々とした沈黙ではなかった。
マーサが広場から歩いてきた。子供たちを落ち着かせ終えたのだろう。小柄な体が杖をつきながらカイの横に立った。手編みのマフラーが風に揺れる。
しばらく二人とも黙っていた。
「あの子は、ここで初めて人を人として見た」
マーサの声は静かだった。カイは振り返った。マーサの黒い目がカイを見上げている。皺だらけの顔に微笑みとも哀しみともつかない表情が浮かんでいた。
「それは、持って帰れないものだよ」
マーサの言葉が夕暮れの風に乗って消えた。カイにはその意味がよく分からなかった。
カイは振り返らず、消えた砂塵の先を見続けていた。暗くなりかけた空の下で砂の匂いと、どこかから漂う煮炊きの匂いだけが残っている。




