↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鉄殻のケストレル ―灰に沈む世界、鉄に宿る季節―  作者: Studio Yodaca
鉄錆の邂逅

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

23/270

リーヴの視線

 リオン・アスフォードはポラリスのコックピットに座っていた。

 計器の光が顔を照らしている。どの数字もいつも通りに整っていた。整いすぎているとリオンは思った。深い紺色の目は通信パネルの波形だけを追っていた。コルヴァスの周波数帯。指が操作盤を叩いて回線を開く。滑らかな樹脂の感触が指先にやけに冷たい。

 呼びかけるまでに一呼吸かかった。回線が開いてから相手が応じるまでの数秒、リオンは知らず息を止めていた。

「リーヴ」

 声は平静だった。軍人としての訓練が震えを押し殺していた。口の中が乾いている。唇を舐めると灰域(アッシュランド)の砂の味がした。墜落してからの数日で口の中にまで砂が入り込んでいる。


「リオンか」

 リーヴ・シェイドの声は士官学校で隣にいた頃のままだった。柔らかく、急がない。スピーカーの雑音越しでもその柔らかさだけは潰れなかった。銀灰色の髪と琥珀色の瞳。リオンは同期の顔を思い浮かべた。微笑みを浮かべているのだろう。声がそういう形をしている。だがその笑い方をリオンは知っていた。

 士官学校の食堂で隣に座っていた日々が蘇る。リーヴは食事中も穏やかに笑い、皿に残った最後の一口を必ず食べきった。パンの欠片ひとつ皿の上に残さない。誰に対しても機嫌を損ねないように先回りして笑う。それが灰域(アッシュランド)で物乞いをしていた頃に身につけたものだとリオンが察したのは、同期になって3ヶ月が経った頃だった。それまで笑顔の下にあるものに気づきもしなかった。


「自分はここにいる。回収に来たなら、集落に手を出す必要はない」

「分かっている。最初からそのつもりだ」

 リーヴの声に嘘はなかった。コルヴァスの任務はリオンの回収であって灰域(アッシュランド)の集落の制圧ではない。

「だが、報告はする」

 リーヴの声のトーンが僅かに変わり、穏やかさの底に冷たい刃が覗いた。

灰域(アッシュランド)冴覚(さいかく)持ちの少年。あれは面白い。セルヴィスに報告する」

 空調の風は変わらず肌に当たっているのに、背中だけ氷を押し当てられたように冷えた。指先が操作盤の上で止まる。

 カイの名前がセルヴィスの情報網に載る。一度書類になればもう消せない。あの少年が軍の標的の欄に並んでしまう。

 数日前までリオンにとってカイはただの灰域(アッシュランド)の少年にすぎず、助けられた恩があるだけのはずだった。なのに今、自分は同期を相手に軍の規律に逆らってまであの少年を庇おうとしている。その理由をリオン自身もうまく説明できなかった。


「リーヴ。あの少年は民間人だ」

「民間人で冴覚(さいかく)持ちだ。鋳脈(ちゅうみゃく)なしでフィンを退けた。お前がそれを知らないわけがない」

 リオンは唇を噛んだ。操縦桿を握る右手の甲に訓練中の火傷痕がある。指先に力が入り、革のグリップが手のひらに食い込んだ。


「お前こそ聞きたい。まだ鋳脈(ちゅうみゃく)を拒み続けるのか」

 リーヴの問いは通信越しでも重かった。

 鋳脈(ちゅうみゃく)。速さと引き換えに後頭部から神経を少しずつ削っていく技術だ。リオンは一度も受けていない。受けた人間がどうなるかを隣の席で6年間見てきた。

 自分は拒めた。参謀長の娘で推薦で士官学校に入った自分には選ぶ余地があったからだ。リーヴにはそれがなかった。承知のうえで「拒むのか」と問い返す自分の声が一瞬うわずりかけ、喉の奥でそれを押し戻す。

「あなたの体がどうなっているか、私は知っている」

 リオンは静かに言い返した。声は震えなかったが心臓が跳ねていた。

 リーヴの沈黙が一瞬だけ長くなり、通信のノイズだけがコックピットの中に流れた。

 士官学校の食堂でリーヴが箸を落としたことがある。左手の指先が滑ったのだ。金属の箸が陶器の皿に当たる硬い音。食堂の喧騒に紛れて周囲は気づかなかった。リーヴは「癖だ」と言い繕って右手で箸を拾い直した。その動作は滑らかで、何度も経験している動きだった。

 だがリオンは見ていた。リーヴの左手の指先が一瞬だけ不自然に開いたのを。力を入れているのに指が言うことを聞かない。握れと命じた信号が指先に届く前に消えている。

 かつてはリオンに「この煮込みは塩が強すぎる」と不満を漏らしていた男が、いつからか食堂で何を食べても同じ顔をするようになった。今は何も言わずに食器を空にする。


「お前の冴覚(さいかく)は、鋳脈(ちゅうみゃく)なしでは宝の持ち腐れだ」

 間を置いてリーヴが続けた。

「セルヴィスの最高戦力になれる素養を持ちながら、お前はそれを拒んでいる。もったいないと思わないか」

 その言い方にリオンの中で何かが切れた。平静を保つはずだった声が最初の一語で上ずった。

「もったいない、で人の体を壊すの」

「体は道具だ。使い潰してこそ価値がある」

 リオンは何も返せなかった。14歳の孤児が「自分で望んだ」と言う時、そこに選ぶ余地があったのか。士官学校以来ずっと飲み込んできた問いがまた喉の奥でつかえた。


 フィンの声が通信に割り込んだ。

「隊長、こんな集落に長居する意味あります? さっさと回収して引き上げましょうよ」

 平静を装った声だった。だがいつもより半拍言葉が速い。フィンが急いでいる。

「了解した。リオン、30分後にこちらに合流しろ。それまでに出てこなければ――」

「出る」

 リオンは短く答えた。操縦桿を握る手の甲が白くなり、革のグリップに爪が食い込んでいた。

 30分。


 通信を切るとパネルの波形が平らになり、静寂が戻った。

 コックピットの中は静かだった。計器の光だけがリオンの顔を照らしている。空調の微かな振動がシートの革を通じて背中に伝わってきた。調整された空気は無味無臭だ。灰域(アッシュランド)の砂と鉄錆の匂いが恋しいと感じる自分にリオンは驚いた。

 だが今、リオンが見ているのは計器ではなかった。

 コックピットの小さな窓からラストヘイムの集落が見える。崩れた外壁。廃材で組まれた住居。子供が一人、壊れた壁の間を駆けていくのが見えた。夕食の支度をしているのか、どこかから煮炊きの匂いが風に乗って流れてくる。乾燥豆と干し肉のあの質素な匂い。あの煙の下で誰かが今夜の鍋をかき混ぜている。

 あの数日のことなら味まで覚えている。乾燥豆の素朴な甘みや、手で千切った灰域(アッシュランド)パンの硬さ。それなのにセルヴィスの食堂で先週何を食べたかはもう思い出せなかった。

 壊れた水道管を夜中に直す少年がいた。怯える子供を抱きしめる老女がいた。そしてあの少年が壊れた残殻(ざんかく)銘殻(めいかく)に立ち向かった場所だ。

 カイ・セヴァル。

 リオンはその名前を初めて心の中で呼んだ。


 通信パネルの波形が揺れた。セルヴィスからの捜索信号が断続的に入り続けている。無機質な電子音が一定の間隔でコックピットに響く。

 30分。

 リオンは深い紺色の目を閉じ、もう一度開いた。

 軍服の襟に触れると、指先に灰青色の布地の硬い質感があった。この服を着たままあの集落に何ができるのか。答えはなかった。

 コックピットの隅に小さな傷がある。装甲の内側に走った亀裂は、ラストヘイムに墜落した時についたものだ。指で触れると塗装の割れた縁がざらついていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。