おかえり
タリアに連れられて集落の広場に向かった。
瓦礫の間を歩く。カイが覚えていた道はもう半分が塞がれていた。崩れた壁が通路を狭め、廃材で組んだ迂回路ができている。だが住民たちの足跡が新しい道を踏み固めていた。ラストヘイムはいつもこうだった。道が塞がれたら別の道を作るのだ。
広場の入口にいるゲオルグがカイの手を握った。丸太のような腕から伝わる力は想像より強かった。とても68歳の男の手とは思えない。右頬の火傷痕が曇天の薄い光に白く浮かび、左耳の上半分が欠損した横顔に短く刈り上げた白髪が見える。首から下がった亡き妻の形見の懐中時計が、握手の動きに合わせて揺れていた。
「おかえり」
ゲオルグの声はいつも通り無愛想だった。低く短く、抑揚がない。だが指が骨に食い込むほどの圧と手の力が全てを語っており、離す気配はなかった。カイが握り返すと、自分の手がゲオルグの手の中で小さく感じられた。
ゲオルグの黒に近い濃褐色の目がカイの顔を見る。垂れた瞼の奥に何かが光った。涙ではない、もっと硬い何かだった。
やがて握手が解かれた。ゲオルグは何も言わず、カイの顔を一瞬だけ見てから背を向け、瓦礫の片付けに戻っていった。
「カイ兄ちゃん、おかえり!」
瓦礫の山の向こうからリックの声が飛んできた。砂まみれの金髪を陽に透かして、15歳の少年が走ってくる。痩せた体は以前より少し背が伸び、肩幅も広がっていた。汚れた手は廃材を運んでいたからだろう。カイが不在の間に、リックは少しだけ大人に近づいていた。
「おかえり。おかえり」
リックは同じ言葉を繰り返した。目が赤い。泣いた後なのかこれから泣くのか。カイを見上げる目には以前の無邪気な英雄視とは違う色が混じっていた。集落が攻撃を受け、住民が避難し、瓦礫の中から這い出す日々を経験した者の目だった。
「ああ。帰ったよ」
カイがリックの頭に手を置く。砂と鉄粉がざらつく。出発した時よりも少しだけ硬くなった髪は、毎日廃材回収をやっている手触りだ。
続いてロイドがやって来た。22歳の実務責任者はメモ帳と計算尺を腰に差したまま、いつもの硬い表情で近づいてくる。集落の被害と復旧の管理でろくに寝ていないのか、目の下の隈が前より深かった。黒髪はきっちりと後ろに撫でつけられているが、顎のラインは以前より鋭い。食事を減らして住民に回しているのかもしれない。右手の親指の爪は黒く変色したまま、瓦礫の中で働いた跡である新しい傷が加わっていた。
ロイドはカイの前で立ち止まった。目は合わせず、視線はカイの肩の辺りを見ている。
「父ちゃんがずっと待ってた」
カイにだけ聞こえるほどの小声でそう言うと、ロイドはすぐに視線を逸らした。口元はいつものようにへの字に結ばれていたが、唇の端が微かに震えている。
「水道の仮設配管、まだ半分しか終わってない。人手が足りない」
それがロイドなりの「おかえり」だった。感情を言葉にできない代わりに、やるべき仕事を差し出してくるのだとカイには分かっていた。かつて「なぜ俺たちが統治機構体の争いに巻き込まれなきゃならない」と訴えた男が、今は黙って仮設配管を繋いでいる。
* * *
マーサの家は集落の東側にあった。旧世界のコンクリート壁を利用した窓が一つの小さな住居だ。中に入ると灰域茶の薄い匂いがする。灰原草の根を煮出した琥珀色の飲み物の匂いだった。
マーサ・ウィンターは窓際の椅子に座っていた。白髪を頭の上で丸く結い上げ、深い皺の刻まれた顔に黒々とした目を光らせている。とても72歳とは思えないほど姿勢が良く、背筋が真っ直ぐに伸びていた。「杖がないと年寄りに見えないからね」と以前は冗談を言っていた通り、右手に持った杖は実際にはほとんど必要としていない。首に巻かれた手編みのマフラーは何度も繕った跡があり、そのたびに手に入る毛糸が変わるため部分ごとに色が微妙に違っていた。大崩落以前に娘が編んでくれたものだが、その娘はもういない。
「お帰り」
マーサの声は穏やかで、微笑みを浮かべていた。だがその微笑みの底には全てを見通す鋭さがある。
「ガルドは」
マーサの問いにカイの表情が変わった。答えようとして言葉が喉の手前で止まる。唇が開いては閉じ、もう一度開いた。
マーサはカイの顔を見つめ、その黒い目で沈黙の全てを読み取った。
「そうか」
マーサはそれだけ言った。声の色は変わらず穏やかなままだったが、杖を握る右手の指が一瞬だけ白くなる。
沈黙が流れた。窓の外では瓦礫の間を吹き抜ける砂まじりの風が鳴っている。
「あの人のことは、書き残しておく」
マーサが言った。
「忘れないように」
マーサは語り部だった。ラストヘイムの最年長者として大崩落の記憶や集落の歴史、去っていった人々の名前を全て記憶して語り継いできた。書き残すという行為は、マーサにとって死者を弔うことなのだ。
「ガルド・ヴェッセンは、テオの親友で、カイの技匠で、ラストヘイムの住民だった」
事実を並べるようなマーサの声は静かだった。だがその事実の一つ一つに、彼女だけが知っている重みがある。ガルドがラストヘイムに来た日のこと。テオの後を追うように幼いカイを連れて現れた無口な男のこと。誰にも過去を語らず、ただ手を動かし続けた男のこと。
「あの人は自分の手で作ったものの帰結を、自分の手で終わらせた。それを、書く」
カイは頷いたが、声は出なかった。
「テオのことも、同じように書いた。消えた男の名前を、残した。ガルドのことも、同じようにする。名前が残れば、あの人はここにいた」
マーサは灰域茶の茶碗を持ち上げて一口飲むと、カイに差し出した。
「まあ、座りなさい」
言われるままに座ると、灰域茶の薄い温もりが掌に伝わってきた。味はほとんどないが温かい。カイのよく知るラストヘイムの味だった。
* * *
マーサの家を出て集落の通りを歩く。瓦礫と新しい木材が混在する景色の中に住民たちの姿があった。廃材を運ぶ男たちや、壊れた壁に漆喰を塗る女たち。子供たちは瓦礫の間を走り回って使えそうな部品を集めている。リックがその先頭に立ち、旧世界の鉄管の破片を掲げて「この径なら給水管に使えるかも」と年上の住民に見せていた。かつて「鉄殻に乗りたい」と目を輝かせていた少年は、今は鉄屑の中から集落の暮らしに使えるものを探している。
カイはゲオルグのところへ戻った。彼は崩れた外壁の前にいた。旧軍の作業着を改造した厚手のジャケットの袖を肘まで捲り、丸太のような腕で廃材の支柱を押さえている。一人では重いのだろう。壁が傾いており、支柱を当てて固定しなければ更に崩れてしまう。
「集落の修復、手伝う」
カイが言うと、ゲオルグは振り返らずに支柱を押さえたまま短く答えた。
「当たり前だ」
カイは支柱の反対側に回って壁を押さえた。ゲオルグが釘を打つ。木槌が廃材を叩く音が集落の通りに響き渡る。
刈り上げた白髪、右頬の火傷痕、首の懐中時計。ゲオルグの横顔を見つめる。この男がラストヘイムを建てたのだ。廃墟の上に廃材で壁を組み、釘を打ち、屋根を葺く。30年前からずっと同じことをしている。壊れたら直し、崩れたら組み直すのだ。




