帰郷
ラストヘイムが見える。
ケストレルのセンサーが捉えた映像をカイは操縦席から見つめる。灰色の大地の向こうに廃墟群のシルエットが浮かんでいる。旧世界のコンクリートの壁。鉄骨の残骸。その隙間に積み上げられた廃材の住居。全てが記憶の通りだ。ただし記憶とは違う部分もあった。
西側の建物が半分崩れている。
外壁の一部が崩落して瓦礫が通りに散乱している。給水設備の配管が折れ曲がり、代わりに仮設の木管が引かれていた。旧世界の配管を再利用したものだろう。接合部に巻かれた布が風にはためく。崩れた建物の断面から住居の内壁が露出している。誰かが暮らしていた痕跡。焦げた壁。割れた窓枠。天井から垂れ下がったままの配線。
だが瓦礫の上に新しい木材が組まれている。
誰かが修復を始めている。崩れた壁に添え木が当てられて釘で打ちつけられ、屋根の梁を支える仮の柱が何本も立っていた。瓦礫の間に人が歩いた跡がある。何度も何度も同じ場所を往復した足跡だ。コンクリートの破片を除けて通路を作り、廃材を集めて積み上げた跡。カイがいない間にもラストヘイムの住民たちは手を止めなかった。
ラストヘイムは半壊しているが、死んではいなかった。
ケストレルの右脚の関節から軋みが響く。
鋼城崩壊からの帰路で応急修理したワイヤーが限界に近づき、一歩ごとに金属の悲鳴を上げている。ガルドならとうに直しているだろう。彼ならカイが気づく前に異音の原因を突き止め、工具箱から適切なサイズのレンチを引き抜いて、「何回言えば分かるんだ、異音が出る前に点検しろ」と小言を言いながら手を動かしているはずだ。
ガルドはいない。
カイは自分で判断して速度を落とし、右脚への負荷を減らした。歩幅を狭くすると関節の軋みが少しだけ和らぐ。ストーンクロスからここまで8日間の行程を一人で乗り切った。機体の状態判断も燃料の配分も、夜営地の選定もだ。
集落の入口が近づく。
外壁の残骸を越えたところでケストレルを止める。エンジンの回転数を下げて各部のロックを確認し、コックピットのハッチを開けた。外の空気が流れ込んでくる。砂と鉄錆の匂い。焚き火の煤の匂い。錆鉄キノコの苦い匂い。全部知っている、ラストヘイムの匂いだ。
この匂いを最後に嗅いだのはいつだったか。ストーンクロスに向かって旅立った日だ。ガルドの旧型作業車が後ろを走り、テオの地図を胸に灰原草の白い穂が揺れる荒野を東に進んだ日。あの日と同じ匂いがする。
ハッチの梯子を降りて地面に足をつける。靴底を通して灰域の硬い大地が脛まで伝わってきた。
ケストレルの後ろにはリオンが乗ってきたポラリスが立っている。こちらも傷だらけだ。薄い装甲の至るところに被弾痕があり、右脚部の外装が歪んでいる。回避特化の機体は被弾を前提にしていないが、この機体は被弾しながらも最後まで動いた。ケストレルと同じくまだ立っている。
リオンがポラリスから降りてくる。梯子を降りる動きに迷いはない。灰域の大地に足をつけ、一瞬だけ立ち止まった。砂と鉄錆の匂いを吸い込んでいるように見える。管区の空気とは全く違う匂い。リオンにとってこの土地はまだ知らない場所だ。
走ってくる足音が聞こえる。
軽い足音だった。鉄殻の操手の重い足取りでも、兵士の規則正しい足音でもない。瓦礫の間を縫うようにして小柄な人影が近づいてくる。茶色がかった黒髪が風に煽られて肩の長さで揺れる。オーバーオール姿。腰にマルチツールと自作の通信機をぶら下げた見慣れた姿だ。両手は傷だらけで指先に半田ごての跡が見える。
タリア・ホリーだ。
「カイ!」
タリアの声が瓦礫に反響する。走りながら叫んでいる。そばかすの浮いた鼻の頭が赤くなっていた。走って息が切れても足を止めなかったのだ。
カイの前で立ち止まり、肩で息をする。大きな茶色の目がカイの顔を見上げた。表情が読めない。笑っているのか泣いているのか、両方が混ざったような顔だった。
タリアはカイの顔を見つめたまま何も聞かなかった。
「おかえり」
短い言葉だ。声が少し震えていた。
「ただいま」
カイの声も自分で思ったより低かった。
タリアの視線がカイの肩の向こうに移る。
リオンが歩いてきたところだった。ポラリスの格納位置を確認してからカイの方に向かってきている。
黒髪をうなじで結び、灰域の住民から借りた作業着を着ている。ストーンクロスを出る前にセルヴィスの軍服は脱いだ。二度と着ることはないだろう。だが背筋の伸びた姿勢と周囲を無意識に走査する目の動きには、まだ軍人の気配が残っていた。それは訓練が体に刻んだものであり、服を替えても消えない。
タリアがリオンを見る。
「......この人、誰?」
カイは答えに詰まった。リオンをどう紹介すればいいのか分からない。戦友。味方。それだけでは足りないし、それ以上の言葉も見つからなかった。
リオンが自分で口を開く。
「手伝いに来ました」
短い言葉だった。
目の奥に何かが走る。カイが知らない間にカイの隣に立っている女がいる。その事実がタリアの中で何かを動かしたのだろう。だがそれは一瞬だった。
「よろしくお願いします」
タリアはそう返す。声に複雑な色が混じっていたが拒絶はない。
リオンは小さく頭を下げた。
タリアはカイに向き直る。
「ケストレル、右脚やばくない? さっきの音、ここまで聞こえてたよ」
「ワイヤーで応急処置してるだけだ。関節の亀裂が広がってる」
「ガルドさんは」
タリアの声が止まる。
カイの表情を見て全てを察したのだろう。タリアの目が一瞬だけ大きく開き、それからゆっくりと閉じて唇を噛んだ。
「......そっか」
声が小さい。
タリアはそれ以上聞かなかった。聞かなくても分かっていたのだ。ガルドの最後の通信を中継したのはタリアだった。あの通信が途切れた後、受信機のノイズだけが流れる通信室で、タリアは復活を待ち続けた。復活はしなかった。
タリアの目の縁が赤くなっている。だが涙は流さず、代わりにカイの腕を強く掴んだ。オーバーオールの袖から伸びた指がカイの前腕に食い込む。力が強い。
「帰ってきてくれて、よかった」
タリアの声が震える。カイの腕を掴む指が微かに揺れていた。
カイは何も言えなかった。
風が吹く。瓦礫の間を抜ける風が砂粒を巻き上げ、タリアの髪を揺らし、リオンの作業着の裾をはためかせた。
カイは振り返った。ケストレルが立っている。傷だらけの鉄紺色の機体が灰色の空の下で静かに立っていた。左肩の装甲が剥がれ、右脚がワイヤーで補強されている。コックピットのハッチは開いたままだ。その傍にはポラリスが並んでいる。二機の鉄殻がラストヘイムの入口に傷だらけで立っていた。
帰ってきた。
この場所に。この荒野に帰ってきたのだ。
胸のポケットに手を入れる。テオの地図がある。折り畳みの紙。褪せたインクで書かれた注記。「A7橋 通過可 残殻サイズ注意」。
テオの足跡はここに還ってきた。カイの足で。




