交渉のテーブル
バートンの執務室が、会議室に変わっている。
机の上の書類が片付けられ、代わりに灰域の地図が広げられている。灰域全域の地形図。旧世界の地図を下敷きにして、現在の集落の位置、交易路、資源の分布が手書きで書き込まれている。バートンが何年もかけて作り上げた、灰域の実態を記した唯一の地図だった。
コンラッド・ナルミが地図の南側に立っている。アイアンウェルの長。50歳の男は右手の結婚指輪を無意識に回しながら、地図の上に視線を走らせている。亡き妻と息子の形見を指で回す癖は、考え事をしている時に出る。
ジェイス・モレノが地図の東側にいる。クレスタの元傭兵。黒い肌と刈り上げた頭。顎に古い刀傷がある。ジェイスは壁に寄りかかり、腕を組んでいる。傭兵の姿勢だった。会議室の中でも、背中を壁につける。死角を作らない。
カイは入り口に近い場所に立っている。バートンの執務室に来るのは何度目かになるが、机の上が地図で覆われた状態は初めてだった。戦闘中の作戦室は地図と書類で溢れていたが、戦闘が終わっても地図はなくならなかった。戦場が消えて、交渉の場が現れただけだった。
「セルヴィスの停戦通達に対する返答の草案ができた」
バートンが言った。手元に紙があった。バートンの筆跡で書かれた文面。
「返答の骨子は3点。一つ、セルヴィスの行動停止を歓迎する。二つ、灰域内の全住民の安全保障は灰域集落連合が自主的に担う。セルヴィスの管区民を含む。三つ、協議には応じるが、その前提として灰域集落連合を対等な交渉主体として承認することを求める」
「通るのか」
コンラッドが言った。低い声だった。悲観的な声だったが、それはコンラッドの常だった。
「3点目は通らない。少なくとも今回は。だが要求として文書に残すことに意味がある」
バートンが地図の上を指でなぞった。灰域西部の集落群。ストーンクロス、アイアンウェル、ドライベッド。そこから点在する小集落を結ぶ交易路。
「灰域集落連合という言葉自体が、今回初めて公式に使われる。これまで灰域の集落は個別の独立体として存在してきた。それをバートン・セオが代表として束ねる。その事実を、セルヴィスの公式文書に残す。それが第一歩だ」
「交渉の材料は」
ジェイスが壁から体を起こす。
「言葉だけじゃ交渉にならない。セルヴィスが灰域と対等に話す理由がいる」
「ある」
コンラッドが地図の南を指す。アイアンウェル。
「アイアンウェルの鉄鉱脈だ。灰域最大の鉄資源。これまでセルヴィスもグランヴェルトも、この鉱脈を直接確保するために何度も作戦を立てたが、立地が灰域の奥深くにあるため確保できなかった。鋼城計画の目的の一つが、灰域の浄化を名目にしたアイアンウェルの資源確保だった」
コンラッドの声は淡々としていた。自分の集落の命運を語っている時でも、声に力みがなかった。
「鋼城がなくなった今、セルヴィスが鉄資源を得る最も効率的な方法は、灰域と交易することだ。軍事的に奪うよりも、交渉で得る方が安い。オズワルドはそれを分かっている」
「つまり鉄が交渉のカードになる」
カイが言った。
「カードの一つだ」
バートンが頷く。
「もう一つのカードは、鋼城を止めた実績そのものだ。灰域連合がグランヴェルトの鋼城を止めたという事実は、3大統治機構体の全てが認識している。セルヴィスにとってもクレスタにとっても、灰域を無視できなくなった。鋼城を止める力を持つ集団との敵対は、得策ではない」
ジェイスが顎の傷痕を擦った。考える時の癖だった。
「傭兵の経験から言えば、交渉の席では最後に立っていた奴が一番強い。灰域は鋼城戦で立っていた側だ。損耗は酷いが、立っていた。それだけで発言権がある」
バートンが地図から顔を上げる。奥二重の目がカイを見る。
「カイ君。お前も来るか。交渉の席に」
カイは首を振った。
「俺は帰る。ラストヘイムに」
バートンの表情が変わった。政治家の顔が一瞬だけ緩んだ。笑みだった。穏やかな、しかし寂しさを含んだ笑みだった。
「お前は親父と違って、引き際を知っている」
テオの名前が出たわけではなかった。だがカイには分かった。テオ・セヴァルは引き際を知らなかった。戦い続け、仕事を請け続け、最後まで止まらなかった。ガルドが何度止めても。
バートンが「親父」と言った意味は、テオだけではなかったかもしれない。ガルドもそうだった。ガルドは鋼城の中に残った。引き際を知らなかったのではない。引く場所を、あえて選ばなかった。自分の手で作ったものの帰結を、自分の手で終わらせるために。引くことが正しいかどうかは分からない。ただ、ラストヘイムにガルドの工具箱がある。
「ケストレルの整備が済んだら出る。右脚の関節を直さないと長距離は歩けない」
「分かった。必要な部品があれば言ってくれ。ストーンクロスの在庫で賄えるものは提供する」
コンラッドが腕を組み直す。
「アイアンウェルからも融通する。鉄鉱石の純度が高い分から選んで送る。あの機体に使うなら、安物は渡せない」
カイは礼を言おうとする。だが言葉が出る前に、バートンが口を開く。
「カイ君」
バートンの声が変わった。政治家の声ではなかった。55歳の男の、素の声だった。
「灰域の歴史は灰域が書かねばならない。お前たちが作ったこの歴史を、俺が書き残す」
カイはバートンを見る。白髪交じりの黒髪。奥二重の目。机の上に広がる灰域の地図。バートン・セオは政治家だった。武器は言葉と記録と交渉術で、鉄殻に乗ることはなかった。だがこの男がいなければ灰域連合は存在しなかった。
「頼みます」
カイは言った。それだけだった。
バートンは頷く。視線を地図に戻し、ペンを手に取った。灰域の地図の上に、新しい書き込みが始まった。交渉の席で使うデータ。集落ごとの人口。資源の産出量。交易路の状態。灰域の歴史を形にする作業が、バートンの手で進んでいる。
カイは執務室を出る。
石造りの階段を降り、市場通りに出る。
ストーンクロスの市場通りには、鋼城戦の前にはなかった変化があった。露店の数が増えている。灰域の各集落から物資を持ち込んだ商人たちが、停戦の報を聞いて集まり始めている。鉄鉱石、乾燥肉、灰原草の蒸留酒、旧世界の部品。灰域の交易が、鋼城戦を経て少しだけ活発になっていた。集落同士が協力した経験が、商売の回路を開いたのかもしれない。
通りの角で、子供が二人走っている。追いかけっこをしている。一人が転んだ。もう一人が手を差し伸べる。起き上がって、また走り出す。
ストーンクロスの空は灰色だった。だが風の中に、微かに土の匂いが混じっていた。雪解けが始まっている。地面の下で、冬が終わろうとしていた。




