ヘルガの研究メモ
バートンの執務室に呼ばれたのは、停戦通達の翌日だった。
カイが部屋に入ると、バートンは机の上に数枚の紙を広げている。紙は汚れている。煤と湿気で端が黒ずみ、折り目が深く入っている。鋼城の内部から持ち出されたものだと一目で分かった。
ユリアが窓際に立っている。茶色の髪を後ろで束ね、白衣ではなくストーンクロスの住民から借りた作業着を着ている。目の下の隈はまだ消えていなかった。だが顔色は鋼城から脱出した時よりは良くなっている。
「ユリアさんが鋼城内部から持ち出した記録だ」
バートンが言った。
「脱出の際に、接続中枢区画の端末から数枚だけ印刷できたらしい。通路が崩壊する中で、だ」
カイはユリアを見る。ユリアは軽く頭を振った。
「大したものは持ち出せなかった。端末に残っていたファイルの一覧を見て、目についたものを数枚だけ。ほとんどは鋼城の運用ログで、私たちには意味がないものだった」
「だが、この中に1枚だけ」
バートンが紙の1枚を指で押さえる。
「ヘルガ・キルシュの研究メモの断片がある」
カイの胸が冷える。ヘルガの名前を聞くと、鋼城の接続中枢区画が脳裏に浮かぶ。ケーブルの束と、ポッドの列と、脈動するコンバーターの光。ラースの骨と皮膚だけの指。ミーナの開いたまま何も映さない目。あの場所を設計した科学者の名前だった。ガルドが命をかけてあの場所を壊した。その科学者のメモが、ここにある。
ユリアの顔に微かな緊張があった。ヘルガの研究に関わっていた時期のことを思い出しているのかもしれない。ユリアはオペレーターとして鋼城に配属され、鋳脈者の接続管理を担当していた。ヘルガの研究を間近で見ていた人間だった。
バートンが紙を滑らせる。カイの前に来る。
メモは手書きだった。几帳面な筆跡。小さな文字が紙面を埋めている。データの表と、それに付された注釈。カイには表の数値の意味は分からなかった。だが注釈は読めた。
「コンバーター稼働時、操手の反応速度に微小な上昇を観測。標準値+3.2%。誤差の範囲とも言えるが、複数の操手で再現性がある」
「この現象は操手がコンバーターの影響圏内にいる時にのみ発生する。影響圏外では反応速度は標準値に戻る」
「冴覚との関連を疑う。冴覚保有者に限定した追加実験が必要だが、サンプル数が不足。鋼城の接続者24名のうち冴覚保有者は3名のみ。統計的に有意なデータを得るには最低でも20名規模の実験が必要」
「あの反応と冴覚の関連を調べなければ。データが足りない。だが、ここに何かがある。確信はないが、直感がある」
カイは紙面を見つめる。
ヘルガの筆跡は几帳面だったが、最後の一行だけが崩れていた。「直感がある」という文字の筆圧が他の行より強かった。インクが紙に滲んでいる。その一行だけが、急いで書かれたように見えた。
言葉の意味は分かる。コンバーターの近くにいると、操手の反応が速くなる。冴覚と関係があるかもしれない。だがそれが何を意味するのかは分からなかった。
ユリアが口を開く。
「ヘルガは鋳脈の研究者だったけど、本来の専門は神経科学だった。鋳脈のリレー素子の開発も、元々は神経と外部装置のインターフェイスの研究が出発点だった。冴覚については、ヘルガは『未解明だが実在する現象』として扱っていた。測定できるデータがある限り、原因が分からなくても研究対象になる。それがヘルガのやり方だった」
カイはユリアの話を聞きながら、自分の冴覚のことを考える。灰色の静寂。脅威が色になる感覚。それが「測定できるデータ」だと言われても、実感が湧かなかった。冴覚はカイにとって体の一部であり、説明するものではなかった。
ただ、一つだけ覚えていることがあった。
鋼城に近づいた時の感覚だった。冴覚が「深くなった」。いつもなら脅威の気配を灰色の膜として感じるだけの冴覚が、鋼城の近くでは水の底に沈んでいくように深く広がった。音の細部が鮮明になった。空気の振動が肌で読める。あの感覚は、戦闘の興奮や集中とは別のものだった。外から何かが流れ込んでくるような、自分の中の感覚が引き出されるような、名前のない体験だった。
「これが何を意味するか、俺には分からない」
カイは紙を畳んだ。折り目を揃え、バートンに返す。
バートンは紙を受け取った。
「ユリアさんに聞いたが、ヘルガの研究は鋳脈の技術的改善だけでなく、冴覚そのものの解析にも及んでいたらしい」
ユリアが口を開く。
「ヘルガの研究室には、鋳脈以外のファイルもあった。冴覚の発現条件、冴覚保有者の脳波パターン、コンバーター稼働時の環境変化と人体への影響。ほとんどは鋼城と一緒に失われた。持ち出せたのはこの断片だけ」
「ヘルガは今どこにいる」
カイが聞く。
「不明だ」
バートンが答える。
「鋼城崩壊前に脱出したという情報はあるが、行き先は分かっていない。ヘルガは鋳脈の全データを持っている。どの統治機構体も彼女を欲しがるだろう。あるいはどこにも属さず、独自に研究を続けるかもしれない」
カイは黙った。
ヘルガのメモの内容が頭の隅に引っかかっている。コンバーター稼働時に操手の反応速度が上がる。冴覚との関連。
答えは出なかった。答えを出すための知識がカイにはなかった。ガルドが生きていれば、と一瞬思って、すぐにやめた。
それ以上考えようとは思わなかった。
バートンがメモを机の引き出しにしまった。
「いつか分かる日が来るかもしれない」
バートンの声は穏やかだった。引き出しを閉じ、鍵をかける。小さな鍵の音が、石造りの執務室に響く。
「この記録は保管する。灰域の資産として」
ユリアが窓際から離れ、机の方に歩いてくる。
「バートンさん。一つだけ言っておきたいことがある」
「何だ」
「ヘルガのあのメモは、鋼城の運用ログと一緒に保存されていた。つまりヘルガ自身は、あの研究を鋼城計画の一部として位置づけていた。冴覚の解析が何に使われるつもりだったのかは分からない。だが、善意の研究だけとは限らない」
ユリアの声は平坦だったが、目には警告の色があった。
バートンは頷く。
「記録は記録だ。どう使うかは、後の人間が決める。だが記録がなければ、決めることすらできない」
カイは頷く。
部屋を出る時、窓の外のストーンクロスの空を見る。灰色だった。いつもの灰域の空だった。だが冬の終わりの空気は、いつもより薄かった。光の角度が変わり始めていた。




