ケネスの沈黙
通信機の前に座った時、リオンの手は動かなかった。
タリアに頼んだのは朝だった。灰域の通信網を経由してセルヴィスの管区回線に接続できるかと聞く。タリアは少し驚いた顔をしたが、すぐに頷く。「時間がかかるけど、やってみます」。タリアは中継点を一つずつ確認し、周波数を調整し、3時間かけてセルヴィスの管区外部回線への接続を確保する。
ストーンクロスの通信室にある中継システムの端末だった。タリアが周波数を合わせ、中継点の接続を確認し、「繋がりました」と言って席を外す。
リオンは一人になった。
通信室の薄暗い照明が、旧世界のコンクリートの壁を黄色く染めている。配線管の隙間から地上の風が漏れ込み、リオンの黒髪を微かに揺らす。
ダイヤルの横に、通話ボタンがあった。それを押せば、フォートレスの管区回線を通じてアスフォード邸に繋がる。父の書斎の通信機が鳴る。
リオンは通話ボタンを見つめる。
最後に父と話したのがいつだったか、正確には思い出せなかった。灰域に出る前だったか。セルヴィスに一度戻った時だったか。記憶の中の父の声は、いつも同じだった。低く、抑揚がなく、命令でもなく叱責でもなく、ただ事実を述べる声。
リオンは通話ボタンを押す。
呼び出し音が3回鳴った。4回目の途中で、回線が繋がった。
ノイズが走った。灰域からセルヴィスまでの中継点を4つ経由しているため、音声に遅延と歪みがあった。だが声は聞き取れる。
「誰だ」
ケネスの声だった。
低く、平坦で、記憶の通りの声。夜の書斎で管区の地図を前にしている時の声と同じだった。
「リオンです」
自分の声が小さかった。リオンは唾を飲み込み、もう一度言った。
「リオンです。父さん」
通信の向こうで、沈黙があった。ノイズだけが流れる。中継点の電磁的な雑音が、波のように寄せて引く。
「リオン」
ケネスが名前を繰り返す。確認だった。生死の確認ではなく、通信の相手が本当に娘であるかの確認だった。声のトーンは変わらなかった。
リオンの記憶の中のケネスは、いつも書斎にいる。管区の地図の前に立ち、部下からの報告書を読み、通信機で指示を出す。食事の席で家族と顔を合わせる時間より、書斎にいる時間の方が長かった。母のセーラがコーヒーを運んでも、ケネスは地図から目を離さずに「ありがとう」とだけ言った。その「ありがとう」にすら温度がなかった。リオンは幼い頃、父の書斎のドアの前に立って、ノックするかどうか迷う時間を何度も過ごした。ドアの向こうの父は、ノックされなければ娘がそこにいたことすら知らない。
「灰域からの通信か」
「はい」
「お前の所在は把握していなかった。生きているとは聞いていた」
声に感情がなかった。娘が生きていたことへの安堵も、灰域にいることへの怒りも、声の表面には出てこなかった。声が聞きたいと思ったのは、今日が初めてだった。
「用件を聞こう」
「セルヴィスには戻りません」
言った。
計画していた言葉ではなかった。もっと丁寧に、もっと理路整然と伝えるつもりだった。灰域で何を見たか。鋳脈者の扱いに何を感じたか。なぜセルヴィスの軍人として戻ることができないか。論理的に、ケネスが理解できる言葉で。
だが出てきたのは、結論だけだった。
通信の向こうで、長い沈黙が落ちる。
ノイズが波打った。中継点の接続が不安定になりかけ、音声が一瞬途切れる。リオンは受話器を握り締める。通信が切れたのかと思った。
「そうか」
ケネスの声が返ってくる。
2語だった。それだけだった。怒りの色がなかった。悲しみの色がなかった。失望すら、声には乗っていなかった。
リオンは何かを待った。叱責を。説得を。あるいは、何でもいいから感情の破片を。お前は何を考えている。帰って来い。許さない。何でもよかった。父の声に、自分に向けられた何かが欲しかった。
だがケネスは何も言わなかった。
「体は無事か」
唯一追加された言葉がそれだった。声のトーンは変わらなかった。娘の安否を確認する父親の声には聞こえなかった。部下の負傷状況を確認する上官の声に聞こえた。
「無事です」
「分かった」
通信が切れる。
ケネスの側から切ったのか、中継点の接続が落ちたのか、分からなかった。受話器の向こうにはノイズすらなく、ただ無音があった。
リオンは受話器を置けなかった。
手が受話器を握ったまま、膝の上で止まっていた。通信室の薄暗い照明が、リオンの黒髪に黄色い影を落としている。目が熱かった。だが涙は出なかった。泣くほどの何かがあったのかどうかも分からなかった。
父は怒らなかった。
父は悲しまなかった。
父は何も言わなかった。
それが、リオンにとって最も重い言葉だった。
* * *
通信室の外に出ると、カイがいる。
壁に背を預けて立っている。通信室に入ってくる様子はなかった。聞こえない場所で、ただ待っている。
カイがリオンの顔を見る。何も聞かなかった。
リオンは立ち止まった。
「父は何も言わなかった」
声が小さかった。自分の声が自分の耳に届く前に、通信室の地下の空気に吸い込まれた。
カイは少し間を置いて、言った。
「それが一番きついな」
リオンは頷く。頷くことしかできなかった。
怒られれば反発できる。泣かれれば罪悪感を抱ける。説得されれば拒絶できる。だが何も言われなければ、何もできない。
カイは何も聞かなかった。
何があったかを聞かなかった。大丈夫かとも聞かなかった。ただそこに立って、リオンが歩き出すのを待っている。リオンはそれが苦手だった。セルヴィスでは何にでも理由が要った。
リオンは歩き始める。通信室の階段を上がり、地上に出る。ストーンクロスの空が灰色だった。冬の終わりの空気が冷たく、リオンの頬に触れる。
市場通りには人が行き交っている。鋼城戦から戻った住民たちの日常が、少しずつ動き始めている。子供が走り回り、露店のおやじが声を上げ、どこかで鉄を叩く音がしていた。灰域の日常だった。セルヴィスの管区とは違う。管区の整然とした秩序の中では、市場で声を上げる人間はいない。全てが規律の中にある。ここには規律がない代わりに、生活がある。乱雑で、騒がしくて、剥き出しの。
リオンは立ち止まった。
「そうか」。2語。それが父の全てだった。
カイが隣を歩いている。半歩後ろ。近すぎず、遠すぎず。




