リーヴの変心
左手が動かなかった。
正確には動いている。指は開閉できる。物を掴める。ただ、それが自分の手なのかどうかが分からなかった。触覚が曖昧になっている。指先でテーブルの表面に触れても、木の感触が遠い。水に沈んだ手で何かに触れているような、膜を一枚隔てた感覚。
リーヴ・シェイドは自室の椅子に座り、左手を見つめている。
コルヴァス駐屯地の士官個室。6畳ほどの狭い部屋に、ベッドと机と椅子。壁に掛けられた制服。窓の外にはグレイウォーターの曇り空が広がっている。雲が低く、空と地面の境目が曖昧だった。
左手の薬指と小指は、もう3ヶ月前から常に痺れている。感覚が戻る時間帯と消える時間帯の波があったが、最近は消えている時間の方が長い。ソフィアの検査では「末梢神経の劣化が進行している。逆行する見込みは低い」と告げられていた。
鋳脈の代償だった。
リレー素子を介して鉄殻の神経系と接続し、遊肢を自分の体の一部として操る。その代わりに、自分の体の一部が少しずつ壊れていく。
ソルスティスに乗っていた頃は、遊肢の感覚が自分の腕より鮮明だった。鉄の指先で敵機の装甲を砕く感触の方が、自分の指で湯呑みを持つ感触よりはっきりしていた。
今は遊肢もない。ソルスティスは鋼城戦の後、セルヴィスに回収されたが、フレームの損傷が深く修復の見通しは立っていなかった。遊肢4基のうち2基は鋼城近傍で喪失し、残り2基も制御系統に深刻なダメージを受けている。
遊肢のない体。感覚の薄れた左手。リーヴに残ったのはそれだけだった。
窓の外から、駐屯地の日常の音が聞こえている。兵士たちの足音。車両のエンジン音。訓練場から響く号令。全てがいつも通りだった。だが廊下で交わされる囁きの内容は、いつも通りではなかった。鋼城が落ちた。灰域の寄せ集めに。グランヴェルトの最強兵器が。その噂話が、駐屯地の空気を微かに変えている。兵士たちの声が小さくなっていた。足音が重くなっている。何かが変わったという予感が、まだ言語化されないまま、廊下の壁に染みついている。
リーヴはその空気を肌で感じている。感覚の薄れた肌でも、空気の変化は分かった。
カイの声が、頭の中で鳴った。
いつ聞いた言葉だったか。鋼城に向かう前だったか、それとも灰域の荒野で対峙した時だったか。正確な場面は曖昧になっている。だが言葉だけが残っている。
人を部品にする計算式は間違ってる。
あの17歳の声が、何度も蘇る。怒りでもなく、哀れみでもなく、ただ真っ直ぐに言い切った声。
間違っていると知っていた。自分が鋳脈を受けた時から知っている。13歳の時に孤児保護施設から連れ出され、適合検査を受け、後頭部にリレー素子を埋め込まれた。痛みは覚えていない。覚えているのは、施術台の上で天井を見上げた時の、蛍光灯の白い光だけだった。
間違っていると知りながら、リーヴはその中に留まった。コルヴァスの隊長になった。遊肢を操り、灰域で戦い、セルヴィスの「最強の盾」として機能した。間違いの上に立って、間違いを維持してきた。
なぜか。
他にどうすればよかったのか分からなかったからだ。
孤児保護施設を出た時、リーヴには行く場所がなかった。鋳脈を受けなければ、一般兵として前線に送られる。鋳脈を受ければ、コルヴァスの操手として前線に送られる。どちらも前線だった。だが鋳脈を受ければ遊肢を使える。遊肢があれば生き残れる確率が上がる。13歳の計算は単純だった。生き残りたい。ただそれだけだった。
その計算が正しかったのかどうか、今も分からない。生き残った。左手の感覚を失い、味覚を失い、遊肢のない体では階段を上がるだけで息が切れるようになったが、生きている。これを「生き残った」と呼ぶなら、計算は正しかった。
だがカイは生き残った。鋳脈を受けずに。冴覚と操縦技術だけで。鋼城を止めた。人を部品にせずに。
* * *
ナディル・コールの部屋は、リーヴの隣だった。
ドアをノックする。返事があった。開ける。
ナディルは床に座っている。壁に背を預け、膝を抱えている。18歳の少年の顔は、リーヴが初めて会った頃より痩せている。頬の肉が落ち、目の周りに影がある。鋳脈の負荷が体を削っている。
ナディルの右手の指が震えている。遊肢の幻肢残響だろう。機体から降りた後も、存在しない遊肢の重さを感じ続ける症状。リーヴにも覚えがあった。
「リーヴ隊長」
ナディルが顔を上げる。声が掠れている。
「お前に聞きたいことがある」
リーヴは椅子を引き、ナディルの前に座った。
「俺たちと同じことを、次の子供たちにさせるつもりか」
ナディルの表情が変わった。掠れた目に、痛みとも驚きともつかない色が浮かんだ。
「同じこと」
「施設から連れ出されて、適合検査を受けて後頭部にリレー素子を埋め込まれる。遊肢を操って灰域で戦って、指先の感覚が消えていくのを毎晩確認する。お前は今、右手の指が震えている。それを、次の13歳にやらせるのか」
ナディルは震える右手を膝の上に押さえつける。指の震えは止まらなかった。
「俺は」
ナディルの声が途切れる。唇を噛む。目が潤んでいる。
「俺は、嫌です」
涙がナディルの頬を伝った。ナディルはそれを拭わなかった。拭う余裕がなかった。
「施設にいた頃、ラウラって人が面倒を見てくれた。灰域出身の年上の子で。施設に移送される時に引き離されて。あの人が泣いてた。俺も泣いてた。それからずっと、誰かに面倒を見てもらうことがなかった。施設は人を育てる場所じゃなくて、鋳脈に使える人間を選別する場所だった」
ナディルの声が震えていた。18歳の声だった。戦場では冷静に遊肢を操る少年の声が、個室の中では子供の声に戻っている。
「それを、次の子供たちに」
「させない」
リーヴは言った。
自分の声に驚いた。
「させない。俺がそうする」
ナディルが泣きながら首を振った。同意ではなかった。信じられないという首の振り方だった。
「隊長は、今まで」
ナディルの声が震える。
「今まで、こんなこと言わなかった」
「言わなかった。言う理由がなかったからだ。いや、違う。言う勇気がなかった」
リーヴは自分の左手を見る。薬指と小指が微かに痙攣している。神経の劣化が進むと、指が勝手に動くことがある。脳が指先の不在を補おうとして、筋肉に誤信号を送るのだと、ソフィアが言っていた。
「お前も灰域出身だ。俺もだ。施設で育って、鋳脈を受けて、セルヴィスの兵器になった。お前はまだ18だ。指の震えは止められるかもしれない。ソフィアに診せろ。俺の左手はもう遅い。だがお前はまだ間に合う」
ナディルの涙が止まらなかった。声を殺して泣いている。
リーヴは立ち上がった。
「行く。オズワルドのところに」
ナディルが顔を上げる。涙で目が赤い。
「隊長、それは」
「俺はコルヴァスの隊長だ。コルヴァスの人間の処遇について発言する権利がある。鋼城戦での戦功もある。オズワルドが聞く理由は十分にある」
左手が震えている。
感覚の薄れた左手が、それでも震えている。神経が劣化しても、恐怖は伝わるらしい。
だが足は止まらなかった。
リーヴは部屋を出る。コルヴァス駐屯地の廊下を歩く。壁に並ぶ歴代隊長の名前のプレートが視界の端を流れる。トバイアス・リンツの名前があった。初代コルヴァス隊長。神経劣化で退役し、今はフォートレスの退役軍人施設で車椅子に座っている。足を止めなかった。
背筋を伸ばす。左手が震えている。だが足は止まらない。




