オズワルドの判断
通信室に入った時、タリアはもう作業を始めている。
ストーンクロスの通信室は、市場通りの地下にある旧世界の配電施設を改造した空間だった。コンクリートの壁に旧世界の配線管が走り、その間に灰域特有の手作りの通信機器が並んでいる。タリアが3年かけて組み上げた中継通信システムの心臓部だった。
タリアは通信機の前に座り、ヘッドセットを耳に当てている。16歳の少女の指が、周波数ダイヤルの上を素早く動いている。右手でダイヤルを回しながら、左手でメモを取る。灰域の通信士の基本動作だが、タリアの手つきには3年分の熟練があった。通信機の周囲には手書きの周波数リストが壁に貼られ、各中継点の状態が色分けされたピンで示されている。赤は断絶、黄は不安定、緑は接続良好。鋼城戦の後、赤いピンが増えている。
「暗号通信だった」
タリアが振り返った。薄茶色の髪が肩で揺れる。表情は落ち着いていたが、目に緊張の色があった。
「中継点を4つ経由して入ってきた。発信元はフォートレス。セルヴィスの中枢通信設備」
バートンが通信室に入ってくる。カイの後ろから、体を屈めて低い天井をくぐった。白髪交じりの黒髪が天井のケーブルに触れる。
「解読できたか」
「途中まで。マイロさんに暗号パターンを見てもらっている」
マイロ・ヒガが通信室の奥にいる。壁に背を預け、タリアが書き出した暗号文のメモを読んでいる。「セルヴィスの標準暗号だ。旧世界の軍用暗号を簡略化したもので、パターンは既に把握している」
マイロが眼鏡の位置を直す。
「解読できた部分を読む。『セルヴィス防衛機構最高司令官オズワルド・グラントより、灰域集落連合代表バートン・セオに対し通達。鋼城モノリスの喪失を受け、灰域における全軍事行動の一時停止を命じた。灰域浄化計画は戦略的再編のため一時凍結する。本通達は停戦の提案ではなく、一方的な行動停止の通知である。灰域側の対応如何に関わらず、セルヴィス軍は48時間以内に灰域西部の全前線拠点から撤収する』」
マイロが紙から顔を上げる。
「ここからが重要だ。『ただし、灰域内のセルヴィス管区民の安全保障に関する協議を、追って求める。協議が不調に終わった場合、軍事行動の再開を留保する』」
通信室が静まった。旧世界の配電設備のファンが低い音を立てている。
カイはマイロの言葉を頭の中で反芻する。全ての単語は分かる。だが、政治の言葉は戦場の言葉とは違った。意味が一つではない。
カイは壁に背を預けたまま、マイロが読み上げた文面を頭の中で整理しようとする。通達の文体は硬く、一つの文に複数の意味が折り畳まれている。戦場では敵の動きを読む。弾道を読む。機体の挙動を読む。弾道は読める。だが文書の裏は読めない。
タリアがメモを確認し、受信記録に通達の概要を書き込んでいる。
「停戦か」
カイが言った。
「違う」
マイロが即座に否定する。
「一方的な行動停止の通知、と書いてある。停戦は双方の合意だ。これは違う。オズワルドは灰域連合を対等な交渉相手として認めていない。セルヴィスが勝手に止まった。勝手に止まったから、勝手に再開できる」
バートンは腕を組んだまま、マイロの分析を聞いている。55歳の政治家の顔が、通信室の薄暗い照明の中で陰影を深くしている。奥二重の目が何かを計算している。
「オズワルドの判断は正しい」
バートンが口を開く。声は穏やかだった。
「鋼城の喪失はグランヴェルトの弱体化を意味する。ヴィルヘルムの失脚は鋼城計画の推進力を削いだ。セルヴィスにとってグランヴェルトは潜在的な脅威であると同時に、灰域浄化のための技術的パートナーだった。そのパートナーが弱った今、セルヴィスが灰域に戦力を割く余裕はない」
「つまりオズワルドは灰域を見逃したんじゃない」
カイが言った。
「灰域に構っている場合じゃなくなったってことか」
「そうだ」
バートンが小さく頷く。
「グランヴェルトの動向が不透明な今、セルヴィスは管区の防衛を最優先にする。灰域は脅威としての優先度が下がった。鋼城を止めた灰域連合の戦力は無視できないが、セルヴィスの正規軍と正面からぶつかるほどではない。オズワルドはそう計算している」
「甘く見ているのか」
「甘く見ているのではない。正確に評価している。だからこそ、今のうちに灰域を交渉の枠組みに入れようとしている」
マイロがメモの最後の行を指で叩く。
「『灰域内のセルヴィス管区民の安全保障に関する協議を求める』。これが本題だ。灰域にはセルヴィスから追放された人間、脱走した人間、それに灰域で生まれた管区に属さない人間が混在している。オズワルドはその中の『セルヴィス管区民』の安全保障を名目にして、灰域に介入する足がかりを残そうとしている」
「断れるのか」
カイが聞く。
「断れば軍事行動の再開を留保する、と書いてある。つまり断れない」
マイロの声は平坦だった。感情を排し、構造だけを読む声だった。
「だがこの通達には、灰域連合にとっても利点がある」
「何だ」
「時間だ」
マイロが眼鏡を外し、レンズを服の裾で拭く。
「セルヴィスが48時間以内に撤収するなら、灰域西部の前線拠点が空く。あの拠点には倉庫がある。弾薬、燃料、医療物資。撤収の際に全て持ち出す余裕はないだろう。残されたものは、灰域の集落にとって貴重な物資になる」
バートンが微かに笑った。政治家の笑みだった。
「マイロ君の言う通りだ。そしてもう一つ。この通達は暗号通信で届いた。灰域連合の代表宛に。つまりオズワルドは、灰域に『代表がいる』ことを認めた。これは小さいようで大きい」
タリアがヘッドセットを外す。
「バートンさん。返信はどうしますか」
「返す。ただし、すぐにではない。2日待つ。すぐに応じれば、こちらが飢えていると見える」
バートンの声は穏やかだったが、そこに含まれた計算の密度はマイロにも劣らなかった。
タリアが通信機のスイッチを切り替え、受信状態を維持モードに移行させる。セルヴィスからの追加通信があるかもしれない。タリアは通信機の前を離れず、椅子の上で膝を抱える。16歳の少女の肩が、少しだけ下がった。緊張が解けたのだろう。鋼城戦の前からタリアはほとんど眠っていなかった。通信の中継を止めれば、誰かの命が途切れるかもしれない。その重圧を、16歳が背負っている。
「タリア」
バートンが声をかける。
「今夜は休め。受信の維持は交代要員に任せる」
「まだ大丈夫です」
「大丈夫かどうかは俺が判断する。休め」
タリアは一瞬口を開きかけ、閉じる。バートンの声には命令の硬さがなかった。だが断れない温かさがあった。タリアは小さく頷く。
カイは通信室の壁に背を預けている。
政治の話は分からない。暗号も、外交も、交渉の駆け引きも。だが一つだけ分かることがあった。銃声が止まる。灰域の集落に砲弾が降らなくなる。鉄殻同士が殺し合わなくなる。
鋼城戦で失われたものの一覧が、カイの頭の中にあった。ガルドの命。残殻7機。負傷者は数え切れない。ボルトの左腕。トワの機体の左脚。リントの残殻の胸部装甲。それだけの犠牲を払って得たものが、「猶予」でしかないと言われても、カイには反論する言葉がなかった。
だがマイロの目は笑っていなかった。暗号文のメモを畳みながら、マイロが呟く。
「和平じゃない。休戦だ。次に銃口が向くまでの、猶予に過ぎない」
カイは黙って頷く。
ストーンクロスの通信室の天井で、旧世界の配線管の継ぎ目から風が漏れている。地上の風が地下まで届いている。冬の終わりの、まだ冷たい風だった。




