ディートリヒの保身
ストーンクロスに戻ったのは、鋼城崩壊から4日後だった。
灰域連合の残存戦力がまとまって移動するのに2日、途中で損傷機の修理と負傷者の搬送に1日、そこからストーンクロスまで更に1日。ケストレルは右脚の関節に亀裂が入ったまま歩かせる。一歩ごとに関節部から金属の軋みが響く。ガルドなら応急修理の方法を指示してくれたはずだが、カイは自分で判断するしかなかった。関節部にワイヤーを巻いて負荷を分散させる。ガルドの工具箱から必要な道具を出し、自分の手で処置する。
ストーンクロスの市場通りには人が溢れている。
灰域連合の帰還を見に出てきた住民たちだった。歓声が上がった。だがその歓声はすぐに静まった。帰ってきた鉄殻の数が、出発した時より明らかに少なかったからだ。損傷した機体が隊列を組んで市場通りを通過していく。片腕を失った残殻。脚を引きずる汎殻。コックピットのハッチが潰れて開放のまま歩く機体。住民たちは通りの両側に立ち、無言で隊列を見送った。
子供が母親の袖を引く。「あの鉄殻、腕がない」。母親は子供の肩を抱き寄せる。何も言わなかった。
バートン・セオの執務室は、市場通りの裏手にある石造りの建物の2階にあった。
旧採石場の石材で積まれた壁。窓が一つ。机の上に地図と書類が積まれ、棚にはクレスタ時代の記録簿が並んでいる。部屋の隅にコーヒーの匂いがする。クレスタから密輸された本物のコーヒー。バートンの唯一の贅沢だった。
バートンは机に向かっている。55歳の首長は白髪交じりの黒髪を丁寧に整え、奥二重の目でカイを見る。表情が読めなかった。穏やかでも厳しくもない。政治家の顔だった。
コンラッド・ナルミが窓際に立っている。アイアンウェルの長。灰域南部の集落を束ねる50歳の男。右手の結婚指輪が窓からの光を反射している。亡き妻と息子の形見。コンラッドは腕を組み、外の通りを見下ろしている。
「グランヴェルトの内部から情報が入った」
バートンが口を開く。声はいつもの通り、穏やかで簡潔だった。
「エドゥアルドのルートだ。確度は高い」
「ディートリヒ・ファルクが動いている」
ディートリヒ・ファルク。グランヴェルト連盟理事会の理事長。ヴィルヘルムの上だが、汚れ仕事は全部ヴィルヘルムにやらせてきた男だ。
「ヴィルヘルムを切り捨てにかかっている」
バートンの声は淡々としている。政治家の声だった。感情を乗せない。事実を並べる。その並べ方自体が、聞く者の判断を誘導する。ボロみたいに怒鳴られた方がまだ楽だ、とカイは思う。
カイは椅子に座ったまま、バートンの言葉を聞く。
「鋼城計画の失敗を、ヴィルヘルムの独断として処理するつもりだ。理事会の承認は『技術的検証のための試験運用』に過ぎなかった、ヴィルヘルムが独自の判断で軍事転用した、という筋書きを作っている」
「事実じゃない」
カイは言った。
「鋼城は理事会が承認した計画だ。鋳脈者の接続もヴィルヘルムだけの判断じゃない」
「もちろん事実ではない」
バートンはコーヒーのカップを手に取り、一口飲んだ。
「だが政治の世界では、事実より『どう記録するか』が勝つことがある。ディートリヒはヴィルヘルムの署名入りの命令書だけを残し、理事会の審議記録の一部を『紛失』させるだろう。ヴィルヘルムの政治的影響力は落ちる。軍事技術本部長の座は維持できない」
コンラッドが窓際から振り返った。
「影響力は落ちる。だがヴィルヘルムの頭の中にある技術知識は消えない」
コンラッドの声は低く、抑揚がなかった。現実主義者の声だった。右手の結婚指輪を無意識に回している。大崩落で妻子を失った男の癖だった。
「鋼城の設計思想。鋳脈の応用理論。イグニス・コンバーターの運用データ。ヴィルヘルム個人が失脚しても、その知識はグランヴェルトの技術者たちの中に残っている。鋼城を作った技術者は、ヴィルヘルム一人じゃない。ヘルガ・キルシュは鋳脈の全データを持って脱出している。あの女がいる限り、鋳脈は再び作られ得る」
カイの胸が冷える。ヘルガの名前を聞いた瞬間、鋼城の中枢区画が脳裏に浮かんだ。接続ポッドと、ケーブルと、脈動するコンバーターの青白い光。あの場所を設計した側の人間が、データごと逃げている。
「その通りだ」
バートンが頷く。
「ディートリヒが切り捨てたのはヴィルヘルムという人間であって、鋼城計画の思想ではない。むしろ逆だ。ディートリヒはヴィルヘルムを切り捨てることで、鋼城計画の失敗を個人の責任にし、計画の『理念』だけは温存しようとしている」
「理念」
カイの声に苛立ちが混じった。
「24人の人間をポッドに繋いで、神経を機械に食わせる理念か」
カイの声に怒りが滲んだ。ラースの骨と皮膚だけの指が蘇る。ミーナの開いたまま何も映さない目が蘇る。ヴォルフの名前を口にした時のユリアの震える肩が蘇る。
「ディートリヒの頭の中では、そうなっている」
バートンはカップを机に置く。
「ディートリヒにとって鋼城計画は『大崩落への備え』であり、グランヴェルトの安全保障の根幹だ。ヴィルヘルムの手法には問題があった。だが計画の目的そのものは正しい。そういう論理で、次の理事会を通そうとしている」
カイは黙った。
ヴィルヘルムの声が耳に蘇る。次の大崩落が来た時、何で人を守る。あの問いを、ディートリヒも握ったままだ。
「頭を切っても体は死なない」
バートンが言った。
短い言葉だった。
「ヴィルヘルムは失敗した」
バートンはカイの目を見る。
「だが、次のヴィルヘルムが出てこない保証はどこにもない」
カイは答えなかった。
ストーンクロスの窓の外で、帰還した鉄殻の足音が遠ざかっていく。損傷した機体が整備区画に向かう重い足音。その音が石造りの壁を通して、カイの椅子まで微かに届いている。
バートンがカップを持ち上げ、残りのコーヒーを飲み干す。空のカップを机に置く音が、静かな部屋に小さく響く。
「カイ君」
バートンがカイを見る。奥二重の目が、初めて政治家ではない色を見せる。
「ガルドさんのことは、聞いている」
カイの体が強張った。
「君が背負う必要はない。ガルドさんは自分で選んだ」
カイは立ち上がった。
「俺は整備に戻る。ケストレルの右脚がまだ直ってない」
バートンは引き止めなかった。ただ、カイが扉に手をかけた時に言った。
「戦いは終わった。だが終わったのは戦闘だけだ。これからが、本当の戦場になる」
カイは振り返らなかった。扉を開けて、廊下に出る。石造りの階段を降りながら、バートンの最後の言葉が頭の中で反響する。
次のヴィルヘルムが出てこない保証はどこにもない。
窓の外の空は、まだ灰色だった。




