生還者
声が聞こえる。
野営地の東側、鋼城の残骸から続く灰色の荒れ地に、人影が見える。複数。ゆっくりと歩いている。いや、歩いているのは先頭の一人だけで、残りは支えられて引きずられるように進んでいる。
カイは立ち上がった。頭痛がこめかみを突いたが、無視する。
先頭にいたのはユリア・ターナーだった。
鋼城内部でガルドと共に鋳脈者の解放作業にあたっていたオペレーター。茶色の髪が乱れ、白衣は煤と埃で灰色に変わっている。白衣の裾が破れている。脱出の際に引き裂いたのだろう。顔色は青白く、唇が乾燥してひび割れている。だが目は開いている。前を見ている。足取りは確かだった。
ユリアの右側で、男が肩を借りて歩いている。ラース・ヘイデン。26歳。鋳脈接続者の一人だった。ポッドから解放された時、泣いた男だ。涙が出ることに驚いて泣いた男だ。
ラースの体は細かった。鋳脈接続中に筋肉が落ち、骨と皮膚の間に何もないような腕がユリアの肩にかかっている。足は動いていたが、体重を支えきれていなかった。一歩ごとに膝が折れかけ、ユリアが支え直す。それでもラースは歩いている。
ユリアの左側には別の男がいる。ヨルグ。最初に接続を解除された鋳脈者だった。ヨルグは自力で歩いているが、右足を引きずっていた。接続中の長期拘束で関節が固まっているのだろう。
その後ろに3人。男が一人、女が一人、そしてもう一人の女を二人で支えている。最後尾の女は目が開いているが、足が地面を滑っている。歩いていない。引きずられている。
ミーナ・フロストだった。
接続者の中で最長の4年間、鋼城に繋がれていた女。目は開いている。呼吸をしている。胸が微かに上下する。心臓は動いている。だがそこに人間の反応がない。瞳孔は光に反応せず、口元は半開きのまま動かない。生きている体と、そこにいない意識。その落差が、見ている者の胸を圧する。
カイは駆け寄った。
ユリアの前で立ち止まった。ユリアの顔が近くで見える。目の下に深い隈があった。唇の端が切れて乾いた血が付いている。だが瞳には力があった。この女は鋼城の中で、崩壊する通路を、5人の元接続者を連れて歩き通したのだ。
「カイ」
ユリアが言った。
「全員、出てきた。6人」
「6人」
カイは繰り返す。ガルドがポッドから外した鋳脈者は6人だった。
「1名は」
ユリアの声が低くなった。
「接続中枢を出た後の通路で。崩壊に巻き込まれて。通路の天井が落ちて」
言葉が途切れる。ユリアは目を伏せ、唇を噛んだ。
「ヴォルフさんが。4番目に解放された、女の人が。瓦礫の下から引き出した時にはもう」
ユリアの肩が微かに震える。だがすぐに顔を上げた。
「5名、生存。うち3名は意識あり。ラースとヨルグは自力歩行が可能。3人目のアクセルは支えがあれば歩ける。ミーナは意識が戻っていない。呼びかけに反応なし」
報告だった。
カイはミーナの顔を見る。
目が開いている。瞳孔が開いたまま固定されている。呼吸はしている。胸が微かに上下する。心臓は動いている。だがミーナはそこにいなかった。4年間の接続が奪ったものは、ポッドから出した後も戻ってこなかった。
鋳脈の末路がそこにあった。
体は生きている。心臓は動いている。肺は呼吸している。だが人間としての反応が、返ってこない。
「ガルドさんが」
ユリアが言った。
「全員を外してくれた。ガルドさんがいなかったら、誰も助からなかった」
カイは目をユリアに戻す。
「接続ポッドのロック機構は、設計者でなければ分からない。内部の配線の順序も、ケーブルの引き抜き手順も。手順を一つ間違えば即死か、最良でも脳の不可逆損傷。それを1人ずつ6人全員、安全に外した。4人目の女性は端子がケーブルと癒着していて、普通なら引き剥がすのに何時間もかかる。ガルドさんは精密ドライバーの先端で0.1ミリ単位で剥がしていった。鋼城が揺れている中で。天井から鉄片が落ちてくる中で」
ユリアの声が震えた。一瞬だけ。すぐに戻す。
「ガルドさんの手がなかったら、全員あのまま鋼城と一緒に崩れていた」
カイは黙っている。
言葉が出なかった。ガルドがそこにいたこと。ガルドが6人の鋳脈者を外したこと。そしてガルドが接続回路を破壊し、鋼城の中に残ったこと。全てが繋がっている。全てが、ガルドの選択だった。
ガルドは技匠だった。壊れたものを直す人間だった。鋳脈を設計した手で、鋳脈に繋がれた人間を外した。自分が作ったものの帰結を、自分の手で終わらせた。止められなかった。
クレアが駆けつける。
ラストヘイムの医師。灰域連合の野戦医療班に帯同している。丸眼鏡の奥の目が、ラースたちの状態を一瞬で走査する。
「横にして。全員。ミーナを最優先」
クレアの声は硬かった。感情ではなく、手順で動く声だった。ベージュのコートのポケットから簡易医療キットを引き出し、ミーナの脈を取り、瞳孔反射を確認する。
「ミーナの瞳孔反射は残っている。微弱だけど。脳死ではない。神経劣化が感覚系と運動系の両方に及んでいる。意識が戻るかは分からない。でも、可能性はゼロじゃない」
クレアの左手の薬指と小指が、不自然に曲がったまま器具を操作している。かつてセルヴィスを脱走した時に折れた骨の後遺症。鋳脈の医療面に関わっていた過去を持つ手が、鋳脈の被害者を治療している。
クレアはラースの前に移動する。ラースの脈を取り、瞳孔を確認し、手足の末端の感覚を調べる。
「ラース、指を動かして。右手から」
ラースの指が動く。ゆっくりと。握る。開く。ポッドの中で繰り返していた動作と同じだった。だが今度は自分の意志だけで動いている。鋼城のセンサーデータと混線していない、純粋な自分の指の動きだった。
「左手も」
左手が動く。右手よりも遅い。薬指と小指の動きが鈍かった。
「末端の神経はまだ戻りきっていない。時間がかかる。でも動いている。これは良い兆候」
クレアの声は事務的だった。だが丸眼鏡の奥の目は、ラースの指を見つめている。医師として診ている。
ヨルグの右足の関節を診て、アクセルのバイタルを確認し、5人目の女の呼吸状態を調べた。クレアは黙々と手を動かす。
ラースがカイの手を握った。
力はなかった。骨と皮膚だけの指がカイの手首に触れ、弱い圧で挟んだだけだった。だがラースの目はカイを見ている。涙の痕が残った目で、はっきりとカイの顔を見ている。
「あんたの、おやっさんに」
声が掠れる。ラースは唾を飲み込み、もう一度口を開く。
「ありがとうって、言ってくれ」
カイは頷けなかった。
もう伝えられない。
ガルドは鋼城の中にいる。3.2キロメートルの巨大な残骸の下に、埋まっている。カイの声が届く場所には、もういない。あの太い手も、低い声も、精密ドライバーを持つ左手の癖も、全部あの瓦礫の下だ。
ラースの手を握り返す。
細い指だった。かつては操縦桿を握り、汎殻を動かしていた手だ。今は骨と皮膚だけになっている。だがこの手は生きている。ガルドが外した。ガルドの手がこの手を救った。
ラースの目から涙がこぼれる。またか、とラースが自分で呟く。泣けることに、まだ驚いている。
カイはラースの手を握ったまま、何も言えなかった。ありがとうは伝えられない。だがこの手の温もりは、カイの掌に残る。




